大河ドラマ「真田丸」での大野治長、カッコいいですよね。この治長、実は関ヶ原の戦いでは東軍についていました。ここには、本当に複雑な当時の豊臣政権内部の事情がありました。そんな複雑な立場にいた大野治長について見ていきましょう。
淀殿の乳兄妹でした
大野治長は、永禄12(1569)年、丹後国大野(京丹後市)に生まれました。父は豊臣秀吉の家臣・大野定長、母は淀殿の乳母・大蔵卿局です。つまり、治長と淀殿は乳兄妹の関係になるわけです。
こうした両親のツテにより、治長は秀吉の馬廻衆に取り立てられました。治長自身が無能だったとは言い切れませんが、少なからず親の七光りがあったわけです。真田信繁も馬廻衆でしたから、もしかすると当時から知り合いだったかもしれませんね。
運命一変、流罪となる
秀吉の死後は秀頼に仕えた治長ですが、慶長4(1599)、徳川家康暗殺計画事件が持ち上がり、これに巻き込まれてしまいました。
これは、前田利長・浅野長政・土方雄久と治長らが家康を大坂城で暗殺しようとしているというもので、密告したのは五奉行の増田長盛と長束正家です。
家康は4人に裁きを下します。
前田利長:加賀征伐をちらつかせる・母・芳春院を人質に要求・嗣子の利常と秀忠の娘・珠姫との政略結婚
浅野長政:家督を息子に譲り隠居
土方雄久:常陸・佐竹義宣のもとに追放
大野治長:下総・結城秀康のもとへ追放
なんと治長は流罪になってしまったのです。
秀吉の死後、豊臣政権内部は混乱していました。この家康暗殺計画事件もまた、豊臣方の人間が豊臣方を告発したのですから、混乱が見て取れます。
実はこれは家康と本多正信の計略だったとも言われていますが、定かではありません。
いずれにせよ、この事件によって4人は家康に屈服し、その後家康の存在感はさらに増していったのです。
関ヶ原ではまさかの東軍参戦
関ヶ原の戦いが起きた時、治長はまだ結城秀康にお預けとなっていました。結城秀康は家康の実子ですから、東軍参戦となっても不思議はなかったのかもしれません。または、とにかく功を挙げて復帰しようという思いが強かったのでしょう。
結果、治長は武功を挙げ、罪を許されることとなりました。戦後は家康からの豊臣への書簡を携えて大坂城入りし、そのままとどまります。治長、念願の豊臣への復帰でした。
弟にさえ命を狙われた!?
しかしほどなくして大坂の陣が起こります。
治長は籠城して和平に持ち込む姿勢だったため、冬の陣の後は徳川方と交渉を続けました。すべては豊臣のためと思っていたはずです。
ところが主戦派の反発は根強く、主戦派の急先鋒だった弟・治房は兄のやり方に反発しました。ある日、城内で治長は襲われ負傷しますが、その刺客は治房の家臣だったというのです。
こんな話も伝わっています。
末弟・治純は幼少時に江戸へ人質に出され、徳川方の人間となっていました。そんな彼が陣中見舞いとして大坂城を訪れた際、真田や長宗我部らが徳川へ内通していると治長に話したのです。
そのため、士気を高めるために秀頼の出陣を考えていた豊臣方でしたが、急遽取りやめてしまったといいます。
豊臣方は意思統一が図れないまま、大坂城は落城します。
治長は、自身の切腹と引き換えに秀頼母子の助命を嘆願しますが、聞き入れられませんでした。そして、秀頼母子と母・大蔵卿局らと自害して果てたのです。
治長の周りの人間(母や弟、淀殿など)の個性が強すぎて、常識人の治長はそれに埋もれてしまったように感じました。豊臣のために奔走したもののそれが実を結ばなかったことは気の毒です。治長は平和な世の方が能力を発揮できたのかもしれませんね。
(xiao)
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