皆さんは、陰陽師(おんみょうじ/おんようじ)をご存じでしょうか。陰陽師とは飛鳥時代以降に設置された官職で、中国起源の陰陽五行思想に基づく「陰陽道」を活用して律令規定を維持したり運営したりする専門職。時代とともに、徐々に占術・呪術・祭祀・暦の編さんも担当するようになり、創作作品でテーマとなる際は、結界や式神を使って鬼や妖怪などを退治する神秘的な存在として描かれることが多くなっていますよね。映画や漫画の題材としても人気です。
今回は天才陰陽師として名を馳せた安倍晴明の経歴や、安倍氏の地位、その子供の経歴などについてご紹介します。
安倍晴明には2人の子供がいた
安倍晴明には2人の子供がいました。実在の人物なのでなんら不思議なことではありませんが、神秘的な存在なだけにイメージが湧きづらいですよね。まずは晴明の経歴や地位についてみていきます。
安倍晴明の経歴
晴明は平安時代中期の陰陽家で、鎌倉時代から明治時代初期まで「陰陽寮」を統括した安倍氏の始祖です。孝元天皇の落胤(らくいん)といわれる左大臣・阿倍倉梯麿(あべのくらはしまろ)から数えて10代目が晴明だといわれていますが、大膳大夫・安倍益材(ますき)や淡路守・安倍春材(はるき)が父親という説もあり、真実は定かではありません。母親については「葛の葉」という狐だったという伝説もあるほどです。
賀茂忠行(かものただゆき)・保憲(やすのり)父子から陰陽道を、保憲から天文道の奥義を授かった晴明は、吉凶を占ったり陰陽道の祭祀を行ったりと宮廷で活躍し、大膳大夫・左京権大夫・天文博士といった数々の職を歴任しました。土御門の北・西洞院の東に家があったことから、晴明の子孫は「土御門家(つちみかどけ)」と呼ばれるようになり、陰陽家として長く繁栄することになったのです。
陰陽道の一族として地位を築いた安倍氏
晴明は藤原道長・行成ら公家の要求に応じて吉凶を占ったり、病気や物怪(もののけ)の調伏も行いました。『栄花物語』では陰陽道の達人とされ、『今昔物語』には師匠の忠行から知遇を得たことや精霊を使ったこと、『古事談』には道長を呪咀する者を見破り、白さぎで見つけ出したことなどが描写され、逸話に事欠かないほどの活躍ぶりでした。
そのため、安倍家は朝廷や貴族たちの信頼を受け、息子の安倍吉平(よしひら)・吉昌(よしまさ)ともども陰陽寮を主導する陰陽道の一族として地位を築いていきます。こうして師匠の賀茂家とともに陰陽道を支配するようになった安倍家でしたが、やがては賀茂家を圧倒するようになったのです。
長男:安倍吉平
確固たる地位を築いていった安倍家ですが、晴明の息子で長男の安倍吉平はどのような経歴を持っていたのでしょうか。
占いの名手・吉平の経歴
吉平は晴明の後継者で、弟の吉昌や賀茂氏とともに陰陽寮を取り仕切っていました。占いの名手だったため道長・実資らに重用され、道長の子・頼通に憑いた具平親王の亡霊を祈祷して祓ったり、勅命による祭祀を執り行ったりと活躍していたようです。
晴明と同じように、陰陽博士・陰陽助・主計助・主計頭・大膳大夫・穀倉院別当など数々の職を歴任しており、治安元年(1021)には春日大社行幸の準備の功労として従四位上を授かっています。
「古今著聞集」に描かれた伝説
吉平には晴明と似た伝説があり、『古今著聞集』にはこのようなエピソードが残されています。
友人の医師である丹波雅忠と酒を飲んでいたときのこと、話に夢中になった雅忠はすっかり杯の酒を飲まずに話を続けていました。すると吉平が突然「早くその杯の酒を飲まなければ地震が来ますよ」と告げたのです。その予言は見事的中し、その後すぐに地震が来たのでした。
占いの名手だった吉平は「指神御子(さすのみこ)」とも呼ばれており、晴明に負けないほど有能な陰陽師だったようです。
安倍吉平庶兄説もある
この吉平には、妾腹かもしれないという庶兄説もあります。
長男が吉平、次男は吉昌というのが通説となっていますが、二人の生年差が1年程度であることから、吉平は庶兄で吉昌が晴明の嫡男とする異説が存在するのです。しかし、実資の日記である『小右記』や道長の『御堂関白記』では吉平のほうが多く登場していることから、彼が嫡男であり、晴明の後継者だったという見方は捨てきれないものとなっています。また、異説の根拠となる二人の生年差についても確実とはいえないようです。
次男:安倍吉昌
長男の吉平は占いに長けていたことがわかりましたが、次男である安倍吉昌はどうだったのでしょうか。
デキる弟・吉昌の経歴
吉昌は保憲の推薦で天文道の学生「天文得業生」となり、寛和2年(986)に父の後任として天文博士に任命されました。吉昌もまた父や兄と同じように数々の職を歴任しており、従四位上も与えられています。
天文密奏宣旨の授与者でもあり、異常な天文現象が観測された場合はその記録と占星術による解釈を内密に上奏する役目を担っていました。
陰陽頭に任じられる
吉昌には伝説や逸話が見つかりませんが、陰陽寮の筆頭である陰陽頭に任命されていることから、実力や実績は兄と同様に相当のものだったと考えられます。陰陽頭はもともと賀茂氏・大中臣氏といった格式の高い陰陽家が担当していましたが、吉昌の代から安倍氏が担当するようになりました。これも吉昌の才覚あってのことでしょう。
『小右記』によると、吉昌は亡くなるまで天文博士を兼務していたようです。彼の死後、後を継ぐ天文博士が無かったため、地方から陰陽師たちを呼んで任命するなどしましたが、これは吉昌ほどの天文知識を持つ者がいなかったからとも考えられそうです。
神秘的な晴明!しかし子供がいた事実
日本の歴史の中でも俗世とはかけ離れた神秘的な存在として語られる晴明。息子たちも不思議な逸話があったり素晴らしい能力を発揮していたりと、晴明に負けず劣らず話題性がある人物といえるでしょう。
晴明は平安時代の人物ですが、その人気は今も絶大です。占いは現在でも存在しているものの、かつてのように大々的に政治に使われることはないため、晴明たちのエピソードに触れると謎めいた魅力を感じますよね。彼らは今後も多くの創作作品で語られていくことでしょう。