【伊達氏再興のために】北海道伊達市の礎を築いた伊達邦成

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北海道は、2018年に命名150年を迎えました。これを記念し、「ほっかいどう百年物語」という番組でこれまで数多くの北海道の偉人たちを紹介してきたSTVラジオによる連載企画がスタート。第9回は、戊辰戦争後に家臣たちを率いて北海道伊達市の礎を築いた仙台支藩亘理藩主「伊達邦成(だて くにしげ)」です。


内浦湾に面する気候温暖な地、伊達市は、明治3年、仙台支藩亘理藩の藩主・伊達邦成が家臣250名を率いて入植したのが始まりです。刀から鍬に持ち替え、原生林を切り拓いた武士集団が、今日の伊達市の礎を築きました。苦難の道を歩んで、伊達邦成自ら開墾にあたり、見事伊達家再興成功に導きました。

亘理伊達氏第14代当主・伊達邦成

伊達家再興を目指し北海道へ

「これが……蝦夷地か」

「はっ、さようで」

見渡す限り広がる原野。まだ10月半ば過ぎというのに、蝦夷地はすでに厳しい冬を迎えており、原野はまさに白一色。海から吹きつける雪まじりの風が、容赦なく彼らを吹きつけていました。

「この土地が我ら亘理藩の永住の地となるやもしれません。いえ、そうしなくてはならないのです、殿」

「わかっておる。だがここは平和だ。もう戦はない……」

しかし、彼らを待ち受けているのは、戦争以上に厳しい大自然との闘いでした。そして、この大自然に立ち向かわなければ、家臣たちの生きる道はなくなってしまうのです。

「雪はそれほど深くはございません。これなら耕作は十分にできるでしょう。こちらに住むアイヌ民族もキビやカボチャを栽培しているようですし」

「うむ、良い土地で安心した。ここなら国の者も喜ぶだろう」

現地調査の先発隊に赴いた、主の名は伊達邦成。仙台藩支藩、亘理藩主。邦成に付き添う武士は、田村顕允(たむら あきまさ)、邦成が最も信頼する亘理藩筆頭家老でした。

明治2年、仙台藩は、幕末の戊辰戦争で官軍に敵対した罪に問われて、領地を大幅に削られており、亘理藩に至っては2万3千石からゼロに等しい58石、130俵分の田畑を与えられたに過ぎませんでした。家屋も田畑も奪われ、逆賊の汚名を着せられた彼らに突きつけられたのは、刀を捨てて農民となるか、武士の誇りを守って餓死するのを待つかという、厳しい選択だったのです。田村顕允は怒りに打ち震えました。

「58石では殿のご一家ですら暮らしてはいけぬ。官軍は我らに死ねと言っているも同然だ!殿、この屈辱を晴らすには、生きて生き延びて、新たな国をつくるほかありませんぞ!蝦夷地へ家中全員で移住するのです」

「そうだな、蝦夷地ならば、北辺の警備にあたる大義名分もあるゆえ、家臣たちが武士の誇りを失わずに済む」

当時、新政府は北海道をロシアの南下から守るため、普段は開墾、いざという時は警備にあたらせる士族集団の移住を募集していました。そこで、やむなく邦成は明治2年、新政府に

「北海道への集団移住」を願い出ますが、政府の答えは、なんと自費による、有珠郡入植の辞令だったのです。

「他の移住団は交通費も米も農機具も支給されているのに、我々だけが自費とは!……藩の資産は全てあやつらに没収されたのですぞ!度重なる仕打ち、もう我慢できませぬ!」

「しかし……まずは8千人の家臣家族を生活させることが第一だ。私の私物を売り払えば何とかなるだろう」

邦成は、残った家財、宝物をことごとく売却し、北海道での伊達家再興に必要な最小限の家宝を持って北海道に渡ることを決めたのです。

18歳で亘理藩藩主となる

伊達政宗騎馬像
独眼竜で有名な伊達政宗の像

伊達邦成は、仙台支藩の岩出山出身。祖先は伊達政宗の大叔父、伊達実元で、代々伊達本家の重臣として活躍した家柄でした。1859年、仙台支藩の亘理藩藩主の死去により養子入りし、弱冠18歳で15代亘理藩藩主となるのです。しかしこの頃から、薩摩・長州藩が中心となって徳川幕府を倒そうとする動きが高まり、安政の大獄、桜田門外の変と、時代は大きく揺れ動き始めました。邦成がどれほど文武に秀で、武将の才智に長けているとはいえ、東北地方の相次ぐ凶作と幕末の不穏な世相の中、国を取り仕切ることは容易ではありませんでした。しかしそんな時、強力な見方が現れたのです。

「殿、このたび父の跡を継ぎ筆頭家老に就任いたしました、田村顕允と申します。殿を全力で補佐してまいりますので、何なりとお申し付けください」

「おお、お主が優秀と誉れ高い田村か。よろしく頼むぞ」

19歳の邦成、28歳の田村顕允。9歳違いの2人の絆は、以後、死ぬまで強く揺るぎないものとして続いていくのです。

藩主となった邦成は、藩の調和を図るために自ら進んで節約を行い、また、各所に目安箱を設置して家臣の率直な意見を求め、己の非を正そうとしました。その姿勢は人々の尊敬と信頼を集め、亘理藩の結束は強固なものとなっていったのです。
しかし、ついに新政府軍と旧幕府軍の戦いが勃発。旧幕府軍側についた亘理藩は、賊軍の汚名を着せられ、土地は全て南部藩のものとなり、8千人の家臣とその家族が路頭に迷うこととなってしまったのです。

「皆の者、聞いてほしい。このたび家老田村顕允と協議し、現地を調査してまいった結果、北海道有珠郡への移住を決定した。我が藩が生き残る術は、これしかない。そのために私はどんな苦労も努力も惜しまぬ!皆の者、新たな気持ちでこの私についてきてくれるか」

「殿……!我ら家臣、どこまでもお供いたします! 伊達家の汚名をそそぎ、北海道で再興するために、一致団結して大事にあたる所存です!」

一同は涙ながらに、敬愛する藩主のため、自活の道を開く決意を固めました。

「さあ、それではさっそく入植に向けて行動だ。我が殿が、家宝の甲冑や刀、茶器まで売り払って丸裸になられたのだ。我々もこれにならい、全ての私財を売って移住費用に充てようではないか。大事なのは金品ではない、我らが蝦夷で成功し、汚名を返上することなのだ」

その後、邦成と田村、そして重臣たちとで綿密な話し合いを行った結果、移住は数回に分け、第一期の移住者がひとまず開墾にあたり、その後、第二期、第三期の移住者を送り込むこととしました。第一期移住は翌明治3年3月とし、医師や大工、木挽、鍛冶屋を連れていくこと、そして何より家族での移住というのが絶対条件でした。そこには開墾の辛さや孤独に耐えかねて、逃亡するものを出さないようにという邦成の強い思いがあったのです。

困難を極めた北国の開墾

こうして明治3年、第一期移住団を乗せた船が故郷を発ちました。期待と不安の入り混じる家臣たち250名を導く邦成は、この時29歳。二度と国には戻らない。新たな土地に第二の故郷を築く。そう決意しての旅立ちでした。

有珠郡は内浦湾の沿岸地方で、中央に長流川があり、一帯は農耕に適した広大な平地。先住のアイヌ民族はきびや大豆・小豆を栽培していましたが、それらはむしろ仙台のものよりも上品質でした。

「殿、道中お疲れ様でございました。この地方は他に比べて気候が温和で、冬の積雪も少ないそうです。なにはともあれ、良い土地に恵まれましたのが幸いでした」

「お主の多大な働きが、皆を勇気づけている。田村、今後も頼み申すぞ」

有珠に到着後、人々は仮小屋の建設から開始。邦成もそれに入りまじり、野宿を続けながら木を切り倒しました。1週間で出来上がった仮小屋は、屋根は笹ぶき、土間にはムシロという粗末な掘立小屋。そしてまもまく、原野が雪に覆われるなかで開墾が始まりました。

「どんどん耕地を広げていこう。皆、頑張れば故郷の何倍もの土地が持てる。努力は成果となってしかと表れるのだぞ。それっ」

藩主の邦成自らが鍬をふるい、スモモの苗を植える姿に、家臣一同は奮い立たされました。こうして伊達市の歴史は誕生したのです。

第一期入植は順調に進み、4ヶ月後の明治3年8月には、第二期移民72名も到着します。

「どうだ、つらくはないか?辛抱できそうか?」

「殿!ここは思いのほか良いところで、病気にかかる者も少のうございます。なにより、お城住まいだった殿が、我らと同じ住まい、同じ生活をしていることが、一同の大きな励みとなっております」

「そうか。皆ようやってくれているな。不便なことがあったら遠慮せず申せ」

もともと亘理藩は藩の体制上、半士半農の生活を送ってきたため、人々は農業経験がありました。しかし、気候・風土も異なる北辺の地。開墾は想像以上の困難が伴い、秋までには270ヘクタールの土地を拓いたものの、実ったのは大根、山芋のみでした。

「こんな時のためにと南京米を1年分買い込んでいたのが得策でした。殿、雑穀で申し訳ございませんがこれを……」

「やむを得まい。2月には800人が移住してくる。私が率先して倹約を心がけねば、全員が餓死や病死をしてしまう事態にもなりかねん。私には皆の命を預かる責任があるのだ」

初めて迎えた北海道の冬。オオカミの遠吠えが響くなか、堀立小屋の隙間からは雪が入り込み、朝起きるとまつげに霜が降りていました。人々は春の訪れを指折り数えながら、涙をのんで北国の長い冬を耐えるしかありませんでした。

私財を投げ打ち家臣たちの食料に充てるも……

そして、翌年2月。真冬の中に行われた三回目の移住は、藩主邦成の家族が来るとあって、788名の大規模な移住となりました。それまで移住に渋っていた人々の心を動かした邦成の義理の母、伊達保子は、本家仙台藩から亘理に嫁いだ正真正銘の姫君。それは、世が世なら謁見も許されぬほど位の高い女性で、彼女の存在そのものが家臣たちの誇りでもありました。

「小さい頃からお城暮らししか経験したことのない母君様を、この北海道の風雪にさらすなど、本当に思いもよらぬことでした……」

「そうだな。母は分家出身の私とは身分も暮らしぶりも違う。だが、その母が移住してくれるからこそ、家臣たちも郷里を思う心を断つことができるのだ」

ところがここで誤算が起こりました。農機具などの荷物を積んだ船が途中で難破してしまい、有珠に到着したのが、予定より3ヶ月も遅い5月の中頃となったのです。そのため耕作時期に大幅な狂いが生じ、人数分の作物の収穫もできなくなりました。蓄えの南京米も夏までには食いつくし、明治4年秋、ついに人々は最大の危機に陥ったのです。田村は進言しました。

「養うべき者は千人を超えております。殿、もはや自生のフキで飢えをしのぐほかありません」

亘理藩を案じる本家からは毎年金品や宝物が届けられましたが、邦成はそれを惜しげもなく売り払い、母も持参した着物や美術品を差し出して、家臣たちの食料に充てました。それは今のお金に換算して、1億円にのぼるほどの金額でした。

「今必要なのは食糧だ。この困難を一人も欠けることなく乗り切るためには、金品など何も惜しくはない」

「なんたるお心遣い……。殿、なんとしてでもこの地で成功し、伊達家を再興させましょう」

粗末な小屋に住み、刀を捨てて、朝から晩まで泥だらけで畑仕事に精を出す毎日。いくら名誉挽回とは思っていても、それはあまりにも耐えがたく、移住者たちの中には田村を恨む者まで現れ始めました。

「もうこんな暮らしはまっぴらだ。田村を斬ってでも亘理に帰るぞ」

「待て、それならば殿とご家族はどうなる。貞操院様でさえあの御年齢で、嫌なお顔ひとつもせず、開墾の労を味あわれているのだぞ。我々家臣が弱音を吐くわけにはいかない。心ひとつにやり遂げねばならないんだ!」

唯一の夢は、北の新天地に亘理藩を再興し、新しいふるさとをつくること。しかしその希望も、明治4年の廃藩置県により根底から覆されてしまいます。全国的に藩体制が失われたことにより、邦成は藩主から移民取締役に、そして家臣たちは武士ではなく、農民となりました。

「待て!行くな!焦ってはならん。今投げ出してしまっては、全てが水の泡になる!」

失望した一部の家臣たちは、田村が引き留めるのも聞かず、札幌の屯田兵に参加し、村を去っていきました。

「案ずるな、田村。私たちを信じてくれている者がまだ大勢おる。彼らのために何ができるかを考えるのが先決だろう」

西洋農機具とクラークの助言

さっぽろ羊ヶ丘展望台にあるクラーク像

2人はさらに力を合わせ、村づくりの基盤を固めていきます。まずは子弟教育の充実。明治5年には、邦成の所有する書物50冊を提供して、道内3番目の官立学校となる有珠郡教育所をもうけます。また官立病院を誘致して福祉を図るなどもし、さらに明治7年にはヨーロッパ式農法も取り入れました。

「耕すべき土地は限りなく広い。生産基盤を確立させるためにも、開拓使より勧められた西洋農具や作物を導入しよう」

開拓使は邦成の要請を受けてプラウ(洋式のすき)、ハロー(プラウで起こされた土塊を砕き耕地をならす農作業機械)など20点の農具とともに技師2名を派遣し、北海道で初の民間による西洋農機具の使用が開始されました。

「これが外国でやってる農業かあ……。ほら、見ろよ、馬がみるみるうちに耕していくぞ」

それまで鍬と鋤しか脳裏になかった人々は、西洋農機具の威力に目を見張りました。この年、新しく開墾した面積は290ヘクタール。前年に比べ、実に4倍の能率を上げたのです。

こうして北海道でいち早く高度な畑作経営を樹立させた伊達村に、明治10年8月、一人の男性外国人が訪れました。

「ようこそおいでくださいました。私が村の取締の伊達邦成です」

「どうもご丁寧に。先日まで札幌農学校の教頭を務めていました、ウィリアム・スミス・クラークです。こちらでヨーロッパ式耕作法を導入しているという話を開拓使から聞きまして、見にまいりました」

札幌農学校の礎を築いたクラークは、この時1年間の契約期間を終えて帰国する道中でした。

「この村の西洋農法の成果は実に素晴らしい!札幌でもまだこれほどは普及しておりませんよ。私の国の農業もほとんど人の手を要しない。牛馬と機械の力を借りることで、広大な土地が耕せるのです。あなた方も、一人一人に割り与えられるほどの牛や馬を飼いなさい」

「牛馬がそれほど重要なのですか?」

「そうです。牛馬は買いつけたら放牧さえしておけば、手がかからないし、飼料もいりません。牛乳も飲めるし、肉を食べることもできるのです。それから畑にはビートを植えなさい。北海道はビートの栽培に適した気候です。出来が良ければ大きな利益も上がるでしょう」

「ビート……、甜菜のことですね。ありがとうございます、さっそく実行することにします」

クラークの助言は有益でした。翌年、クラークが手配した甜菜の種が開拓使本庁から届き、それを試作した結果、新しい西洋作物の甜菜には、相当の糖分が含まれていることが分かったのです。この成功を受けて、翌年には、我が国で初めての国営による製糖工場を建設。伊達村で収穫された甜菜はこの製糖工場で買い上げられ、当時国内で需要が増えつつあった「砂糖」がここから作られていきました。こんにちの北海道にみる大農法と、北方農業の基軸となっている甜菜。これらは明治の初頭に伊達の武士団が着目し、自活の道を切り拓いたものだったのです。

伊達家の汚名をそそいだ邦成

有珠山から眺めた伊達市街

一方、故郷亘理からの集団移住は明治3年の第一回以来、毎年のように続き、明治14年まで9回にわたって行われ、述べ2千700名が入植しました。こうした努力がようやく報われたのは、移住から11年が経った明治14年。邦成を中心に一致団結して開墾を進め、1千320ヘクタールの土地を拓いた亘理藩士たちの大規模なくにづくりが高い評価を得、内国勧業博覧会で表彰されたのです。そして明治19年には、元士族としての戸籍が移住民たちに与えられました。

その後明治25年、51歳となった邦成には男爵の称号が授けられ、これにより、伊達家は完全に賊軍の汚名をそそいだのです。東京で行われた式典の後、邦成は宮城県亘理町に立ち寄り、数十年ぶりの里帰りを果たしました。明治維新後、殿様への哀惜の念を持ち、黙々と土地を耕していた農民たちは、皆涙、涙で出迎え、祝いの式典を催しました。

「お帰りなさいませ、殿……。私どもはあなた様が北海道の荒地で耐え忍びながら闘って来られたことを誇りに思います。こんな素晴らしいい主君を持って、北海道に行った者も、亘理に残った者も皆幸せです」

「じつに長い年月だった。だが武士の誇りを取り戻せた今、心に残るのは達成感のみ。多くの人々に支えられ、この感謝は言葉では言い尽くせないほどだ」

幾多の困難を乗り越え、急速な発展を遂げた有珠郡伊達村。この入植が成功したのは、邦成自身の強い意志と責任感、これを助けた田村顕允の聡明さ、家臣一同の忍耐と努力に他なりません。そして何より、邦成・田村の信頼関係を軸とする、家臣たちの強固な団結にあったのです。
伊達邦成は明治37年、63歳で波乱の生涯に幕を下ろし、その後、邦成と田村の御霊は、旧藩士の子孫らによって、伊達市内の鹿島神社に祀られました。

毎年8月には伊達市民らが鎧・兜に身を固め、伊達家の旗を持ちながら勇壮に練り歩く「伊達武者まつり」が行われています。新しい世代の若者たちが、伊達士族によって拓かれた町の歴史と伝統を、今に受け継いでいるのです。

(出典:「第十集 ほっかいどう百年物語」中西出版

STVラジオ「ほっかいどう百年物語」
私達の住む北海道は、大きく広がる山林や寒気の厳しい長い冬、流氷の押し寄せる海岸など、厳しい自然条件の中で、先住民族であるアイヌ民族や北方開発を目指す日本人によって拓かれた大地です。その歴史は壮絶な人間ドラマの連続でした。この番組では、21世紀の北海道の指針を探るべく、ロマンに満ちた郷土の歴史をご紹介しています。 毎週日曜 9:00~9:30 放送中。

 

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