【平清盛の長男:平重盛】忠義と孝行のはざまで揺れた心優しき男の生涯

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【平清盛の長男:平重盛】忠義と孝行のはざまで揺れた心優しき男の生涯

日本初の武家政権を開いたことで知られる平清盛。その偉大な父の血を受け継いで活躍したのが平重盛です。大河ドラマ『平清盛』では窪田正孝さんが重盛役を務め、その名演が話題となりました。六波羅小松第に居を構えたことから小松殿とも呼ばれた彼は、若くから頭角を現し信望を集めたものの、優しさ故に苦悩する一面もあったようです。
今回は、保元の乱と平治の乱での重盛の活躍、二条親政期から後白河院政期までの流れ、平家打倒の陰謀とその最期などについてご紹介します。

保元の乱と平治の乱での活躍

メトロポリタン美術館所蔵の『保元・平治の乱合戦図屏風』です。

重盛が関わった大きな合戦は、保元の乱と平治の乱です。この二つの戦いでの重盛の活躍を振り返ります。

血気盛んに戦い功績を認められる

重盛は、保延4年(1138)清盛の長男として誕生しました。12歳で鳥羽法皇の蔵人(天皇の秘書的役割)になり、その翌年には従五位下に叙されます。保元元年(1156)父・清盛に従って保元の乱に参戦。源為朝との戦いで清盛軍は甚大な被害を受け撤退を余儀なくされますが、重盛は制止する父を振り切って出陣しようとするなど果敢に敵に挑みました。戦いは清盛らが属する天皇方が増援などで盛り返して勝利。重盛は戦功として19歳の若さで従五位上となりました。

味方の士気を鼓舞し奮戦!

平治元年(1160)院近臣らの対立により平治の乱が勃発します。このとき清盛は熊野参詣中で、『平治物語』によれば重盛は動揺する父を励ましたとされていますが、『愚管抄』では清盛に同行していなかったことが見て取れます。京都に帰還した清盛は、二条天皇を脱出させたのち藤原信頼・源義朝の追討宣旨を受けます。重盛は叔父・頼盛とともに出陣し、味方の士気を鼓舞して激戦を繰り広げました。この戦いで大きく活躍した重盛は、勲功として伊予守に任命され、従四位下、左馬頭も兼任しました。

二条親政期から後白河院政期

二つの合戦で活躍し次々と昇進を果たした重盛。その地位は、二条親政期から後白河院政期にかけて盤石なものとなっていきます。

26歳の若さで公卿に昇進

藤原為信による、『天子摂関御影』の二条天皇像です。

二条親政期の応保元年(1161)後白河上皇と平滋子の子・憲仁親王(後の高倉天皇)を皇太子にしようという陰謀が発覚します。このとき清盛は陰謀に同調せず二条天皇を支援。そのため厚い信任を得ることになり、重盛も26歳の若さで公卿になるなど目覚ましい昇進を遂げました。ただし、清盛は後白河上皇にも配慮するなど上手く立ち回っていたようです。
長寛3年(1165)二条天皇が崩御すると、その子・六条天皇が即位。まだ幼い天皇を平家と摂関家が支えることになり、重盛は左兵衛督、権中納言、右衛門督と順調に昇進していきました。

清盛の後継者となった重盛

六条天皇の政権は摂政・近衛基実の死去により崩壊します。平家が二条親政派から後白河上皇支持に変わったことで、六条天皇は退位させられ、憲仁親王が皇太子として擁立されました。憲仁親王の乳父(めのと)になった重盛は、清盛の後任として春宮大夫(皇太子御所の内政を司る機関の長官)になり、その後は権大納言として帯剣を許可されます。また、国家的軍事や警察権も委任され、清盛の後継者としての地位を確立しました。

東国武士と結びつきが強まる

仁安3年(1168)清盛が病のため出家し福原に退隠します。政情不安の危惧を抱いた朝廷は憲仁親王を高倉天皇として即位させ、六波羅に残った重盛は平家一門の統率にあたりました。これにより、清盛に従っていた伊勢平家の郎党は重盛に仕えるようになり、彼らを通じて源氏の勢力が強かった東国の武士とも結びつきが強まっていきます。重盛はこのような関係を重要視し、東国武士をつぎつぎに傘下に収めていきました。

平家打倒の陰謀と最期

清盛の後継者として勢力を強めていった重盛ですが、やがて後白河院や父親との関係に悩むこととなります。

後白河院との関係の変化

藤原為信による、『天子摂関御影』の後白河法皇像です。

承安4年(1174)朝廷の公事などを精力的に務めていた重盛は、右近衛大将に任命されます。清盛はこれを深く喜び、拝賀の儀式には多くの公卿や殿上人が付き従いました。
後白河法皇と平家の蜜月ぶりは増していきましたが、高倉天皇を産んだことで平家一門を繁栄させた滋子の死去により、平家と後白河法皇は次第に対立するようになります。それでも、重盛が左近衛大将、異母弟・平宗盛が右近衛大将になるなど、平家の地位独占は続き、当面は大きな問題は起きませんでした。

延暦寺の強訴と鹿ケ谷の陰謀

そんな中、延暦寺の強訴を発端に院と延暦寺が全面衝突します。重盛が「父の指示がなければ動かない」と言ったため、後白河院は清盛に出動を命令。しかし後白河院側に平家打倒の企てがあるとの密告を受けた清盛は激怒します。この件で首謀者とされた重盛の義兄・藤原成親は配流のうえ殺害され、院とのパイプ役として成親を重要視していた重盛の面目は丸潰れとなりました。こうして社会的地位が失墜した重盛は、父・清盛と君主・後白河院の板挟みとなって苦しむことになったのです。この事件は鹿ケ谷の陰謀といわれ、そもそも清盛が仕組んだものとも考えられています。

表舞台から姿を消し…

この事件後、重盛は気力を失って表舞台から身を引き、それ以降は宗盛が平家一門の棟梁として台頭しました。内大臣も辞任しようとしましたが、高倉天皇の妻・徳子の懐妊によりそれは認められなかったようです。徳子の出産後は皇太子の養育係に推挙されましたが、ここでは固辞しています。その後の重盛は病で家に籠もるようになり、吐血するなど病状が悪化したため出家し、42歳で死去しました。重盛の死因については、ストレスによる胃潰瘍だったという説もあります。

重盛はどんな人物だったか?

重盛はどのような人物だったのでしょうか?その人物像についてご紹介します。

情に厚い優れた武人

重盛の評価は、当時から「穏やかで情に厚い優れた人物」という好意的なものでした。見舞いの使者にも返礼を述べるなど、こまやかな気遣いができる人物だったようです。その温厚な人柄から後白河院の信任も厚く、『平家物語』では平家一門のなかでも良識のある存在として描かれています。

出自から孤立感があった

平家の棟梁となった重盛ですが、重要案件は清盛の判断が優先されるなど、実際には全権掌握できなかったようです。重盛の母は正室でも身分が低かったため、重盛には自分を支える有力な親族がおらず、孤立感を抱えていました。同母弟・基盛の早世も孤立感に拍車をかけたようです。

日本三忠臣といわれる

重盛は平家一門のなかで困難な立場にありましたが、清盛と院の調停役を務めながら忠義を尽くしました。胃潰瘍による死因説があることから、その心労はすさまじいものだったと推測できます。しかし、このような働きにより、勤皇思想が広まった江戸時代後期には、万里小路藤房、楠木正成とともに日本三忠臣として高い評価を受けるようになりました。

 

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