戦国武将を支えたのは、有能な家臣だけではありません。その兄弟もまた、時に重要な役割を果たしました。兄を支えて頑張った弟はもちろんキラリと光る存在ですが、反対に残念な弟もまた注目を浴びてしまうわけで…。今回は「頑張った弟」と「残念な弟」をピックアップしてご紹介します。
毛利の「両川」:吉川元春&小早川隆景
毛利家を語る上で欠かせない「三本の矢」の逸話。そのモデルとなった兄弟が、毛利隆元・吉川元春・小早川隆景です。
元春と隆景は他家に養子に入り、毛利家を主家と仰いで全力で支えました。父・元就と兄・隆元、隆元の死後は甥の輝元に忠節を尽くしたのです。
彼らは大内・尼子・織田・豊臣など多くの戦国大名との戦にはかならず参戦し、元春の武勇と隆景の知謀は、毛利家にとってなくてはならないものでした。あまりにできすぎる弟たちだったため、兄の隆元はコンプレックスを抱くほどだったんですよ。
兄を支えた弟たち:三好実休・安宅冬康・十河一存
畿内をいち早く制圧し、織田信長よりも早く「事実上の天下人」となった三好長慶を支えたのもまた、有能な弟たちでした。
三好実休と十河一存は、その勇猛さで兄の軍事面を支えたのです。
特に十河一存は「鬼十河」との異名を取るほどで、戦で傷を負っても、傷口に塩をすり込んで藤の蔓を巻きつけ、何事もなかったかのように戦場へ突っ込んでいったという逸話を持つ猛将です。
ただ、この2人が相次いで戦死・病死してしまうと、長慶の軍事力は目に見えて低下してしまいました。
しかし、残った弟・安宅冬康は最後まで兄を支え続けました。彼は有能な武将でありながらも穏やかな性格で、人望が厚かったとされています。
ある時、戦三昧の兄・長慶に対して冬康は鈴虫を贈りました。そして、「鈴虫のような夏虫でも、よく世話してやれば冬まで生きるものです。それが人間ならばなおさらのことですよ」と、長慶に対して無益な殺生を控えるようにとやんわりと注意したという逸話があります。正面切って言わないところも、気づかいの人ですね。
実休と一存、加えて息子の義興を相次いで亡くした長慶は、その頃から精神的に不安定になってしまいました。
ちょうどその時、彼の耳に「冬康に逆心あり」との話が飛び込みます。これは明らかに濡れ衣なのですが、同じく長慶の家臣だった松永久秀による讒言だという説もあるんです。
しかし、判断力の低下した長慶はそれを信じ込み、冬康を呼びつけるなり自害させてしまったのでした。
冬康の死後、すぐに長慶は弟に逆心などないことを知り、深く後悔しましたが後の祭りでした。そして長慶も間もなく病死してしまったのです。
残念な弟は「橙武者」:大野治胤
大野治胤は、豊臣秀頼の側近・大野治長の弟です。兄はデキる人物でしたが、弟はというと…残念な感じでした。
大坂冬の陣で5千の兵を任された治胤ですが、悪天候のため敵は攻めてこないと油断し、結果として敵の奇襲を受けて何もしないまま軍を壊滅させてしまいました。
この時、同じく遊郭で遊んでいて戦をろくにしなかった薄田兼相と共に「橙武者(=見かけ倒し)」という不名誉なあだ名をつけられてしまいます。
また、夏の陣では堺の街を焼き討ちし、町衆から深く恨まれます。そのため、大坂城落城後に脱出した治胤は、捕縛後、堺の人々から火あぶりにされてしまったのでした。
…なんだか本当に、見掛け倒しかもしれません。
不思議なことに、有能な弟ほど兄に尽くすパターンは戦国時代に多いような…。吉川・小早川の場合、独立しちゃっても良かったのでは?と思いますが、兄思いだからこそ、デキる弟だったといえるでしょう。
(xiao)
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