歴人マガジン

【中国を300年ぶりに統一!】隋の皇帝・煬堅の功績と活躍から恐妻家の一面まで

チャンネル銀河で2019年3月6日(水)から放送をスタートする、中国歴史ドラマ「独孤伽羅~皇后の願い~」。今回、日本初放送となるそのドラマをより楽しんでいただけるよう、その舞台である隋(ずい)という国の成り立ち、主人公の独孤伽羅(どっこから)の夫である皇帝・楊堅(ようけん)についての豆知識をまとめてみた。

「隋」が建国するまで

隋(589~618年)といえば、小野妹子が使者として赴いた「遣隋使」などでもよく知られるが、長く分裂していた中国を、およそ300年ぶりに再統一した国家としても有名である。まず、その「隋」の建国までの流れをざっと解説したい。

紀元前210年、「秦」の始皇帝が亡くなった。その秦を倒した劉邦は紀元前202年に「漢」を建国。漢(前漢)は一旦は滅亡するが、紀元25年に劉秀(光武帝)が再興し、「後漢」として続いた。漢は通算して400年近くも続いた。

その漢も衰えてきて、西暦220年に滅亡。代わって曹丕(そうひ)によって魏が建国されるが、これが魏・呉・蜀 の三国が争覇した「三国時代」だ。やがて魏を乗っ取った司馬炎が「晋」(西晋)を建て、280年に三国統一を果たす。

だが、その西晋も5代30年弱しか続かずに滅び、317年に「東晋」が成立するも、統一王朝としての力はなく、中国は動乱の五胡十六国時代へと突入した。華北は五胡、つまり5つの異民族が割拠する「五胡十六国時代」に突入し、やがてそれらを「北魏」が統一した。

しかし、その北魏も東魏・西魏に分裂してしまい、それぞれ北周・北斉に引き継がれる。この「漢」の基盤が揺らいだ後漢末期から三国時代、南北朝時代までの複数の王朝が乱立した時代を「魏晋南北朝時代」という。

この時代、大きく分ければ、中国大陸は北部と南部に分かれ、北部(華北)で最も強い勢力を持っていたのが北周だった。楊堅(541~604年)はその北周の大将軍をつとめた楊忠(507~568年)の子として生まれた。父・楊忠は猛獣退治で名をあげ、北周随一の名将として知られた。

隋の初代皇帝となる楊堅(『独孤伽羅~皇后の願い~』より)

楊堅が幼いころから活躍できたのは、父の地位と名声あってのことだが、自身も勇猛かつ聡明だった。577年に大軍を率いて黄河を下り、北斉を滅ぼし、北周の華北統一に大きく貢献した。578年には長女の麗華(れいか)を北周の宣帝(第4代皇帝)に嫁がせて皇后とし、政治の実権をにぎった。宣帝は酒色にふけり、政治を一任したこともあって、その義父でもある楊堅は権勢を欲しいままにするのだ。

ここで余談ながら、日本でも有名な「嵩山少林寺」は、宣帝が洛陽の近くに建てた陟岵寺(ちょこくじ)を前身としている。のちに隋が興ってから「少林寺」と名を改めることとなる。

さて、権勢をふるう楊堅に対し、北周の皇族(宇文一族)や、その重臣らは危機感をつのらせた。やがて宣帝が22歳の若さで亡くなったので、楊堅一派と重臣たちとの抗争が起こる。重臣らは楊堅排斥をくわだてるが失敗。楊堅は反対派の重臣・尉遅迥(うっちけい)が起こした乱を平定し、静帝に迫って禅譲(ぜんじょう)に成功。581年、41歳でついに皇帝に即位する。隋の建国であった。

楊堅は長安に都を置き、587年に後梁を滅ぼし、589年には南の大国「陳」を滅ぼす。そして、西晋の滅亡から300年ほども乱れ続けてきた中国の統一を果たしたのである。

楊堅と独孤伽羅

楊堅と独孤伽羅(『独孤伽羅~皇后の願い~』より)

楊堅の在位期間は 581年から、亡くなるまでの 604年8月13日まで。通算で23年、中国統一から5年間だった。その間、彼はさまざまな政策を打ち出したが、代表的なものとして「開皇律令」という律令制度を制定したことがあげられよう。

律令制度の制定、つまり国家を体系的に運営するための行政組織や業務など、体制の根本をなす基本法典を定めたことをいう。これは次の煬帝や、唐の時代にも引き継がれていき、さらには日本や朝鮮などの東アジア諸国にも大きな影響を与えた。

その象徴として、中国最初の計画都市である新長安城(大興城)の造営、長安と黄河および淮河と長江を結ぶ運河の掘削など、中央集権化を進めてもいる。

次に「科挙」制度がある。それまで、官僚は九品官人法(きゅうひんかんじんほう)という、三国時代の曹丕が始めた制度が続いていたが、世襲制の性質が強く、時代に合わなくなってきていた。楊堅は家柄や身分に関係なく、だれでも役人の試験を受けられる公平かつ世界的にも斬新な制度を始めたのである。

さて、そんな楊堅の正室が、独孤伽羅(どっこ から)という女性である。変わった名前だが、独孤氏は北周の重臣。匈奴(きょうど)という北方から来た異民族の一族である。

伽羅は、当時の女性としては珍しく政治にも関わり、楊堅も彼女の意見を重んじた。一例として、伽羅の従兄弟が法を犯したとき、楊堅は遠慮して一命を助けようとしたが、伽羅は「国家の大事。私に遠慮は無用です」と言い、法の通り処刑させたという。

その一方で、非常に嫉妬ぶかく、楊堅がほかの女性を後宮へ入れることに強く反対。「自分以外の女とは関係しない」と、夫に当時としてはきわめて異例な誓いをさせた。彼女の出自である匈奴の一部族では、女性の立場が強く、一夫一妻制度が重視されていたという。ある意味、きわめて現代的ともいえる価値観だった。

独孤伽羅は一夫一妻制を重視したことで知られている(『独孤伽羅~皇后の願い~』より)

 

しかし、あるとき楊堅は北周の重臣の孫娘を寵愛した。伽羅はひそかに手をまわし、その娘を殺害してしまった。楊堅は憤りながらも「わたしは貴くも天子(皇帝)になったのに自由がない」と家臣らに愚痴をこぼした。なぜか伽羅のいいなりであった。

楊堅と伽羅のあいだに、二人の男子がいた。長男の楊勇、次男の楊広である。楊勇は寛大で温厚な性格だったが、少し女性にだらしないところがあって、色好みでもあり、多くの側室をかこった。母の伽羅はそんな長男を嫌い、次男の楊広を世継ぎに立てようとする。楊広は兄とは逆に、質素なふるまいを心がけていた。

結果、その工作が成功して楊堅は楊勇から皇太子の座をはく奪して庶民へ落とした。これによって楊広は、のちに父の跡をついで2代皇帝・煬帝(ようだい)となる。独孤伽羅という、ひとりの女性を中心とした思惑が、一国の運命を左右したのだ。

それは、母親としての愛情か、それとも隋という国の行く末を思ってのことゆえか。しかし、今にして思えば、それは隋の「悲劇」の始まりでもあった・・・。

文・上永哲矢

次の記事:【中国史上歴代ワースト3位の短命政権】なぜ、隋は2代で滅びたのか?

中国歴史ドラマ「独孤伽羅~皇后の願い~」

放送日:2019年3月6日(水)放送スタート 月-金 夜11:00~
リピート放送:2019年3月7日(木)放送スタート 月-金 午前9:30~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/dokkokara/

画像:『独孤伽羅~皇后の願い~』©Beijing Hope Century Motion Pictures Co., Ltd

 

<関連記事>
【キングダムから三国志まで】いっきに学ぶ中国の歴史
【歴史上で一番の“暴君”って誰なの?】歴史に名を残す暴君 三選!

Return Top