2020年の東京オリンピック開催を前に始まったNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』。この作品にはさまざまな人物が登場しますが、その中でも1964年東京五輪招致のスピーチという重要な役目を果たしたのが、星野源さん演じる平沢和重(ひらさわかずしげ)です。
今回は平沢の経歴や人物像、名スピーチが生まれるに至った経緯についてご紹介します。
平沢和重の経歴と人物像
まずは平沢の経歴と人物像について振り返ります。伝説のスピーチを生み出した彼はどのような人物だったのでしょうか。
エリートコースを走っていた
平沢は、明治42年(1909)9月14日に香川県丸亀市で生まれました。東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業後にアメリカ・メイン州のベイツ・カレッジで1年間学んだ後、駐米日本大使・斎藤博の秘書官やニューヨーク領事などを経験し、昭和24年(1949)から26年間、NHK解説委員を務めています。
「ジャパンタイムズ」編集主幹、産経新聞論説顧問でもあり、三木内閣では外交ブレーンとしても活躍しました。
ニューヨーク領事や英字新聞の編集主幹など海外に縁のある仕事をしていた平沢は、もちろん英語もペラペラです。経歴からしても、まさにエリートといった感じですね。
人を魅了する”マダムキラー”
平沢は精悍(せいかん)で渋い雰囲気があったことから「マダムキラー」と呼ばれていたそうです。具体的なエピソードは見つかりませんが、彼の持つ論理的な思考力や開放的な性格、また国際人としての功績は高く評価されていたようで、このような人物像が世のマダムたちを魅了していたのかもしれません。エリートコースを歩んでいた彼ならば、うなずける話ですよね。
この「マダムキラー」という設定には、星野源さんも「どういうこと!?」と驚いたのだとか。『いだてん』ではどのように描かれるのか楽しみですね。
平沢の名スピーチが生まれた経緯
オリンピック東京大会の実現に向けて名スピーチを披露した平沢ですが、もともとは招致活動に携わってはいませんでした。一体どのような経緯でスピーチをすることになったのでしょうか。
嘉納治五郎と出会い、最期をみとる
外交官時代のこと、平沢はバンクーバーから横浜に向かう氷川丸の中で、国際オリンピック委員会(IOC)委員・嘉納治五郎(かのうじごろう)と出会い親交を深めました。しかし嘉納は横浜に到着する2日前に肺炎で急逝、平沢は船内で最期をみとることになったのです。
その後の昭和34年(1959)5月、50歳になった平沢はミュンヘンで開催されたIOC総会に出席します。ここで昭和39年(1964)の第18回夏季オリンピック開催地としての東京の立候補について説明し、五輪の誘致に尽力することとなったのです。この時彼は、「嘉納治五郎の最期をみとった人物」と紹介されたのだとか。これを考えると、氷川丸での出会いは運命的だったといえるかもしれません。
五輪誘致に反対していた
そんな平沢ですが、もともとオリンピックの東京招致は時期尚早として反対していました。NHKの番組でも批判していたそうなので、周囲も反対派という認識だったでしょう。
しかしIOC総会直前に、プレゼンテーション担当の北原秀雄が足を骨折して出席できなくなってしまいます。北原は外交官で、平沢の友人でもありました。
そのような事情があり、平沢は当時の東京都知事である東龍太郎(あずまりょうたろう)から説得され、当初反対していたオリンピック招致活動に急きょ協力する立場になったのです。
スピーチはピンチヒッターだった
東の説得により、平沢は代役としてスピーチを行うことになります。
この時の五輪立候補地は、東京・デトロイト・ブリュッセル・ウィーンで、それぞれの最終プレゼンテーションの持ち時間が45分のところ、他の都市は1時間を超えるスピーチを行いました。ところが東京のスピーチは、ほんの15分で終わったのです。
本来の持ち時間を大幅に下回る平沢の招致スピーチは、伝説のスピーチとして語り継がれることとなります。
15分の名演説で日本招致を決定!
平沢が小学校6年生用の国語教科書を手にしながら始めたスピーチは、おおよそ以下のような内容でした。
「日本では小学校の教科書でもオリンピックの精神が説かれており、子どもたちは直接見ることを待ち望んでいます。日本は極東(Far East)と呼ばれますが、飛行機の飛ぶ現在ではもはや遠い(Far)わけではなく、遠いのは国や人同士の理解です。今こそオリンピックをアジアで開催する時です」
平沢がこれを15分の英語でスピーチすると、会場は大きな拍手に包まれたといいます。このスピーチは、東京五輪決定に大きな役割を果たしたのです。
オリンピックへの思い
平沢の行った招致スピーチはわずか15分でしたが、そこにはオリンピックにかける熱い思いがありました。このスピーチは平沢でなければできなかったでしょう。
彼は東京が開催地として正式決定した後、なぜスピーチが短かったのかという質問について「テレビの解説はいつも15分だから」と答えたそうです。伝えるべき言葉を簡潔にまとめる力にたけていた彼だからこそ、聴衆の心を動かせたのかもしれません。半世紀以上前に平沢が英語で行ったこのスピーチは、今後も後世に語り継がれていくことでしょう。
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