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【日本の剣術・鉄砲伝来にも影響?】少林寺の武術と倭寇の知られざる関係

【日本の剣術・鉄砲伝来にも影響?】少林寺の武術と倭寇の知られざる関係

チャンネル銀河で2019年7月31日(水)から放送開始の中国歴史ドラマ『少林問道』。あの「少林寺」を舞台としたドラマとあって、注目されている方も多いかと思う。そこでドラマをより楽しんでいただけるよう、その舞台である「嵩山少林寺」の歴史や、「中国武術と倭寇と日本」の意外な関わりなどを解説してみたい。

少林寺と映画

嵩山(すうざん)少林寺といえば、ある程度の年齢以上の方であれば、昭和57年(1982)に制作され、大ヒットを記録したアクション映画『少林寺』をご存じだろう。リー・リンチェイ(現:ジェット・リー)の映画デビュー作としても知られている。

現在も多くの僧侶たちが起居する少林寺(撮影・上永哲矢)

それ以外にも少林寺にまつわる映画は多い。たとえば、ブルース・リー主演『燃えよドラゴン』(1973)の冒頭も少林寺が舞台であり、敵役のMr.ハンは少林寺を裏切った男という設定である。またその他にも、ジャッキー・チェンの初期作品『少林寺木人拳』(1976年)や『拳精』(1978年)、リュー・チャーフィー主演の「少林寺三十六房」(1978年)といった数々の名作が日本にも上陸し、人気を博した。

そして、近年では『少林サッカー』(2001年)、アンディ・ラウ主演の『新少林寺/SHAOLIN』(2011年)など、関連映画は枚挙に暇がない。……筆者は上記に挙げた映画をどれもこよなく愛しているため、いささかマニアックな話になった。ご容赦願いたい。

6世紀に創建され、武術の修行場として発展

1500年以上もの長い歴史を持つ嵩山少林寺(『少林問道』より)

さて、数々の舞台となった嵩山少林寺は、中国河南省・鄭州市に実在する仏教寺院である。その歴史は古く、中国南北朝時代の北周代に宣帝(559~580年)が創建した陟岵寺(ちょくこじ)が前身という。宣帝は暴君であったが、先代の武帝が廃止した仏教を復活させた功績があり、陟岵寺の創建もその一環だった。

宣帝は、重臣の煬堅(ようけん)の娘婿だったが、やがて政治の実権を義父の煬堅に奪われてしまう。煬堅といえば、581年に隋を建国した人物で、歴史ドラマ『独孤伽羅~皇后の願い~』にも登場した。

陟岵寺は隋の二代目・煬帝(ようだい)の頃、勅命によって寺名を「少林寺」と改めた。煬帝は、あの日本の遣隋使を迎えたことで知られるが、少林寺の名付け親でもあったことになる。少林寺が建つ嵩山は、古代より山岳信仰の場として有名で、数多くの修行道場が築かれたが、少林寺もそのひとつとして発展する。

「天下の武術少林より出ず」と称えられる少林寺。なぜ「少林拳」ほか中国武術が発祥したのだろうか。功夫(カンフー、クンフー)も中国武術の別名である。

日本の浮世絵に描かれた達磨(だるま)

由来については諸説あるが、普通元年(520年)にインドから仏教の布教に来た僧・達磨(だるま)大師が少林寺を訪れて禅宗の教えを授けた。面壁九年(めんぺきくねん)といわれるように9年間、壁に向かって坐禅を組んだという。達磨は、こうした修行によって体力の衰えを防えることを嘆き、鍛錬の秘法を生み出した。それが発展して武術となったのが「小林拳」であるという。

ただ、実際には達磨は少林寺で坐禅をしたというだけで、武術を授けたのは後世につくられた伝説ともいわれる。では、どこで武術が生まれたのか。その起源は前漢(紀元前206年~)の時代、黄河沿いに住んだ人々が、長く続く戦乱から身を守るため、自衛の手段として身体を鍛えたことに始まるという。

著名な例としては、『三国志』の魏志にも登場する名医・華佗(かだ)が考案した、五禽戯(ごきんぎ)がある。これは猿、鹿、熊、虎、鳥という5つの禽獣の動きを取り入れて身体を動かす養生法として弟子に伝えたものだ。

中国武術の流派は主に内家拳と外家拳という二つの種類に分けられる。気の養成および身体の調和を目的とするのが内家拳で、太極拳などがそれにあたる。それに対し、蟷螂拳(とうろうけん)のように敵を攻撃する手段として学ぶのが外家拳で、少林拳もこれに該当する。

少林寺はそれらの武術の発祥地であるとともに、修行場として発展を遂げた。16世紀ごろには、僧侶たちが倭寇(わこう)の討伐に参加し、その撃退に貢献したとも伝えられる。武術は徒手空拳だけでなく武器を使ったものもあり、それらが役立ったのである。

明をおびやかした「北慮南倭」とは?

ドラマでは「北虜南倭」に揺れる混乱の時代が描かれている(『少林問道』より)

戦場での武術について、詳しくはあとで述べるが、冒頭で紹介したドラマ『少林問道』も、ちょうど、その時代の少林寺が舞台だ。明王朝の12代目・嘉靖帝(かせいてい=1507~1567年)の時代、当時は北虜南倭(ほくりょなんわ)という難局に直面していた。北虜はモンゴル、南倭は倭寇のことである。

「北虜」のモンゴルとは明の前に中国を支配した元(げん)の残存勢力で、洪武帝(朱元璋)によって北へ追いやられたあとも、なお中国再侵攻の機会を狙っていた。当時のモンゴルの支配者はタタール族のアルタン・ハーンで、明の嘉靖29年(1550年)には長城を越えて北京を包囲。以後、明とアルタンは激しい抗争を繰り広げる。

隆慶4年(1570年)、アルタンは孫のバガンナギが明軍に投降したことを機に、講和を持ちかける。明朝はアルタンを順義王に封じ、北辺に11の市を開くことを認めた。これ以降、「北虜」は沈静化し、1世紀の間、平穏を保つこととなる。

一方、「南倭」の倭寇についても述べておこう。そもそも倭寇には大きく分けて前期倭寇(14世紀前後)と、過渡期を経た後期倭寇(16世紀)の2種がある。前期は、おもに瀬戸内海・北九州を本拠とした日本人による海賊で、これに高麗人(朝鮮人)が加わっていた。鎌倉時代に攻めてきた「元寇」に対する報復行為でもあったという。

倭寇は、朝鮮沿岸から中国東北部沿岸にまで及んだ。しかし、明との貿易(日明貿易)を望む室町幕府将軍・足利義満が倭寇の取締りに乗り出し、鎮圧する。1419年には、朝鮮王朝の太宗が「倭寇撃退」を名目に対馬侵攻に乗り出し、227隻・1万7000人もの軍勢を派遣したが、対馬や北九州の諸大名がこれを撃退した。これを契機に、日本側が沿岸を厳しく取り締まったことで倭寇は鎮静化する。

しかし、16世紀になると倭寇はふたたび活発化する(後期倭寇)。これは日本人ではなく、中国人の王直(?~1580年)や、徐海(?~1556年)といった中国の貿易商人(海商)が頭目であった。当時、明が海禁政策により私貿易を厳しく制限したためで、王直らはそれに反発する形で活動し、日本の博多商人、ポルトガルやイスパニア(スペイン)商人と密貿易を行なっていた。

日本の鉄砲伝来に大きく関わった倭寇の頭目

面白い逸話がある。天文12年(1543年)、種子島にヨーロッパ船が漂着(『鉄炮記』)。日本史上に名高い「鉄砲伝来」である。日本人は、乗員たちと話すことができなかったが、その船に明国人の五峯という者が乗っていた。

彼との漢字による筆談を介してヨーロッパ人と話が通じ、島主・種子島時堯が鉄砲を購入するに至った。この「五峯」とは、倭寇の頭目・王直の別名、あるいは字(あざな)であるという。もし、それが本当の逸話で、王直と同一人物であるとしたら彼が日本に軍事革命を与えた鉄砲伝来を、大きく後押ししたことになる。

一方、明軍は1547年に倭寇の鎮圧に乗り出すも、苦戦を重ねた。戦いが続くなか、王直は1557年、「官位を与える」という明側の講和要求に応じて舟山列島の港へ入るが、これは罠であり、捕らわれて処刑される。しかし、頭目を失ってもなお倭寇の勢いは盛んで、豊臣秀吉が1588年に「倭寇取締令」を発令するにいたって、ようやく沈静化した。秀吉の天下統一も、その40年前に倭寇がもたらしたかもしれない鉄砲が普及した結果である。そう考えてみるのも興味深い。

日本の剣術が中国武術やモンゴル撃退に影響した?

倭寇が沿岸を荒らしまわっていたとき、明軍をもっとも苦しめたのは鉄砲ではなかった。それはなんと、日本から持ち込まれた大太刀であり、それを上手に扱う「剣術」の使い手であったという。明の将軍・戚継光(せき けいこう)は、戦いのなかで倭寇が所持していた陰流(かげりゅう)剣術の目録を手に入れ、これを研究した。

戚継光(1528~1588)

その結果、日本刀対策として狼筅(ろうせん)という枝葉の付いた竹製の槍を開発。6人一組による集団戦法で対抗し、多くの倭寇を討伐。その後、戚継光は『紀效新書』(きこうしんしょ)『辛酉刀法』(しんゆうとうほう)という兵法書を記し、兵制改革に取り組み、倭刀や火縄銃を装備した兵を混在させ、その後のモンゴル軍の侵入を防ぐことに成功した。

また、17世紀中期には苗刀(みょうとう)という武器と、それを用いた中国武術が生まれるが、この手引書になったのは日本の大太刀と剣法をモデルにした『単刀法選』『単刀図説』という書物であった。

明軍と倭寇との戦いが「北虜」の撃退に役立ち、中国武術の一流派をつくり出したという点は、なんとも興味深い限りである。この戦いに少林寺の僧が参加していたというから、そこから培われたノウハウが少林寺に持ち込まれ、発展した可能性もあるだろう。

1900年に起きた「義和団の乱」は大刀会という⺠間の武術組織が大きく関与した。彼らは「義和拳」を用いてキリスト教団体と争ったのである。

だが、残念ながらその当時および、古代から用いられていた「少林拳」は、近世に一旦は終息してしまっている。1966年5月から1976年10月まで毛沢東が主導した「文化大革命」により、伝統武術も否定され、破壊の対象とされた。少林寺も建物や仏像などを破壊され、僧侶は追放され、廃墟同然の状態に陥った。

観光客でにぎわう現在の少林寺(撮影・上永哲矢)

中国政府にとって、武力にもなり得る伝統武術は脅威であったから、「押陳出新」(古くさきを退け、新しきを出す)をスローガンとし、特に「外家拳」を排除して「内家拳」を体育化・スポーツ化した。健康体操としての性質が強い太極拳が中国で盛んになったのは、このためである。のちに文化大革命は否定され、伝統武術が見なおされるようにはなるが、1980年代の半ばになるまで中国武術による打ち合い「散打」という競技は危険度が高いとして中止されていた。

多くの少年たちが武術稽古に励む現在の少林寺(撮影・上永哲矢)

現在の少林寺は世界遺産となり、世界中から多くの観光客が押し寄せる観光地だ。少林拳は境内に設けられた劇場などで、ショービジネスとして公開されており、修行の場という雰囲気ではなくなってしまっている。もちろん少林寺の僧の中にはまじめに修行に取り組む者もいるし、同じ嵩山には伝統的な拳法の修行の場として機能する古刹も存在する。

歴史ドラマ『少林問道』は明代後期、政界の陰謀に巻き込まれた主人公たちの苦悩と戦いを描いた作品だ。基本フィクションではあるが、倭寇と明政府とのせめぎあいという史実がもとになっており、少林拳(カンフー)のアクションも見ごたえたっぷりである。こうした時代背景を知ったうえで鑑賞すればさらに楽しめるだろう。

文・上永哲矢


中国歴史ドラマ「少林問道」
放送日:2019年7月31日(水)放送スタート 月-金 夜11:00~
リピート放送:2019年8月1日(木)放送スタート 月-金 午前9:30~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/shourin/
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画像:『少林問道』©2015 Shanghai New Culture Media Group Co.Ltd. .All Rights Reserved. 提供:アジア・リパブリック11周年


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