【三国志:馬超】曹操と敵対し、一族を皆殺しにされた勇猛武将の生涯

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【三国志:馬超】曹操と敵対し、一族を皆殺しにされた勇猛武将の生涯

三国志に登場する馬超(ばちょう)は、中国後漢末から三国時代に活躍した武将の一人です。馬超は戦いで力量を発揮したものの、曹操との激しい対立の末に多くの仲間を失いました。『三国志演義』ではその雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられましたが、馬超の人生とはどのようなものだったのでしょうか?

今回は、馬超のうまれから青年期まで、曹操との対立と奮闘、劉備への降伏、『三国志演義』での馬超などについてご紹介します。

うまれから青年期まで

馬超はいわゆる名門の出身だったようです。うまれから青年期までの馬超について振り返ります。

名将・馬援の子孫として生まれる

清の時代に描かれた馬騰の肖像です。

馬超は扶風郡茂陵県の出身で、熹平5年(176)に誕生しました。後漢時代に活躍した名将・馬援の子孫にあたり、『蜀志』に記録があります。父・馬騰(ばとう)が羌族との混血だったため、その血を受け継ぐ馬超も漢王朝の支配を受けない民族から厚く信望されました。涼州では後漢の霊帝時代末期ごろから羌族などの反乱が頻発していましたが、やがて馬騰と韓遂(かんすい)の勢力が台頭。二人は義兄弟になったものの、やがて対立関係に転じ、馬超は韓遂の部下に殺されかけました。そのような状況を見た曹操は、関中の混乱を収めようと司隷校尉・鍾繇(しょうよう)を派遣します。仲裁を受けて和解した馬騰と韓遂は、曹操に人質を差し出して帰順しました。

漢中の独立軍閥の長となる

建安7年(202)、馬超は曹操への援軍として出陣し、平陽県の郭援・高幹を討伐することになります。司隷校尉の督軍従事に任命された馬超は、父の部下・龐徳(ほうとく)ら1万人ほどの兵を率いて戦い、みずから郭援の首級をあげました。このとき馬超は足に矢を受けたものの、袋で足を覆って戦い続けたといいます。その後、馬超は徐州刺史に就任。建安13年(208)、馬騰と韓遂が再び不仲になったため馬騰が入朝すると、偏将軍に任命された馬超は西涼に留まり、父の軍勢を引き継ぎました。

潼関の戦いでの奮闘

曹操に服属していた馬超はやがて反旗を翻します。曹操と敵対した彼はどのような道を辿ったのでしょうか?

曹操と敵対し挙兵する

馬超が反旗を翻した曹操の肖像です。

建安16年(211)、曹操は鍾繇・夏侯淵(かこうえん)らに漢中の張魯(ちょうろ)を討伐させようと画策しました。馬超をはじめとする諸将らは、張魯と馬超の領土が地理的に近いこともあり、自分達が攻められるのではないかと危機感を募らせます。反乱を決意した馬超は、「鍾繇たちは信用できない。自分は父を捨てて韓遂を父とするので、韓遂も子を捨てて自分を子と思って欲しい」と韓遂に申し出ました。韓遂は、「涼州の諸将は意を同じくしており、これは天命だ」と反旗を翻すことに同調。曹操と敵対した馬超と韓遂が挙兵すると、それに呼応する者が相次ぎました。この「潼関の戦い(どうかんのたたかい)」で、馬超は10万人の軍勢を率いて曹操軍と激突します。

曹操軍を追いつめるが……

馬超は曹操軍の先鋒を撃破し、黄河の南岸に布陣した曹操と対峙しました。潼関から北に黄河を渡ろうと考えていた曹操は、兵を先に進ませ許褚の率いる軍勢とともに殿軍となります。馬超はここに猛攻撃をしかけ、曹操軍を大混乱に陥れました。このとき許褚がいなければ曹操は命を落としていたともいわれています。最終的に曹操は渡河に成功し、その後も両者の攻防は続きましたが、戦いがこう着状態になると会談の場が設けられました。しかし、曹操軍の「離間の計(りかんのけい)」にはまり、馬超と韓遂はお互いを疑うようになります。曹操はこの隙をついて攻撃し、馬超らは大敗して逃走しました。

一族の処刑、そして再起

建安17年(212)5月、馬超が起こした反乱の連帯責任として、父と一族200人あまりが処刑されます。これに対し、馬超が羌族の兵たちを集めて蜂起すると、多くの郡や県が呼応しました。涼州刺史・韋康に開城させた冀城を拠点に味方を増やした馬超は、曹操軍の救援にやってきた夏侯淵を撃破。氐族も味方につけ勢力を盛り返しましたが、やがて馬超に降伏していた楊阜(ようふ)らが反旗を翻し、馬超の妻子が斬殺される事態に陥ります。いさかいはその後も続きましたが、最終的に馬超は漢中の張魯を頼って落ち延びました。

劉備への降伏

張魯のもとに亡命した馬超は、その後、劉備に降伏します。蜀の武将となった馬超はどのように最期を迎えたのでしょうか?

漢中を出奔し、劉備のもとへ

蜀漢の初代皇帝となった劉備の肖像です。

馬超は張魯から兵を借りて失地回復を試みたものの、夏侯淵らに阻まれるなど失敗を繰り返しました。張魯軍は涼州奪還に失敗した馬超の能力を非難するようになり、馬超も張魯に不満を抱くようになります。そこで馬超は、荊州の劉備に降伏して出奔。劉備はすぐに使者を送って彼を歓迎し、これが益州の未来を変えることになります。これより前のこと、益州の劉璋は曹操や張魯に対抗するため、劉備に張魯征伐をさせようとしていました。ところが、劉備と劉璋は争うようになり、優勢になった劉備は劉璋の本拠・成都を包囲。このような状況で馬超が劉備に降伏したため、劉璋は恐れをなして降伏します。こうして劉備は蜀を掌握し、馬超は平西将軍に任命されました。

従弟を託して死去

建安22年(217)、馬超は劉備の漢中攻略戦に従軍しますが、目立った戦功をあげることなく撤退しました。それでも劉備陣営での馬超の評価は高かったようで、諸葛亮をはじめ多くの人が賞賛の言葉を残しています。建安24年(219)には仮節・左将軍に任命され、章武元年(221)には驃騎将軍・涼州刺史になるなど累進。しかし、翌年の章武2年(222)にこの世を去り、子・馬承が跡を継ぎました。死の間際に馬超は、「自分の一族は曹操に殺され従弟・馬岱(ばたい)だけが残りました。途絶えんとしている宗家の祭祀を彼に継承させてください」と劉備に告げたといわれています。

『三国志演義』での馬超とは?

名将の血筋をもち勇猛果敢に生きた馬超ですが、『三国志演義』ではどのように描かれているのでしょうか?

「錦馬超」と称えられた屈強な姿

馬超の容姿は、「顔色は冠の玉のようで、目つきは流星のよう、虎のような体躯に猿のような臂、腹は彪(ひょう)のようで、腰は狼のようである」と描写され、「錦馬超(きんばちょう)」として称えられています。曹操の視点では「人を圧倒するような雄姿」、劉備の視点では「威風にあふれ人品また群を抜く」となっており、屈強な美丈夫だったことがうかがえます。

挙兵時期が『正史』と逆転している?

馬超の見せ場ともいえる潼関の戦いでは多くの脚色が入っているようです。史実では馬超の挙兵後に一族が皆殺しになっていますが、『三国志演義』では皆殺しになった一族の復讐のために挙兵したことになっています。これは、「劉備に味方する悲劇の英傑」としてのイメージにつながっているといえるでしょう。

許褚との一騎打ちで勇猛ぶりを発揮

清時代に描かれた許褚の肖像です。

馬超は勇猛ぶりが際立つように脚色されており、潼関の戦いでは上半身裸になった許褚との一騎打ちのシーンが描かれています。張魯のもとに身を寄せたあとは、劉璋軍の援軍として劉備軍の張飛と一騎打ちするシーンもあります。

五虎大将軍として活躍!

『三国志演義』の馬超は、劉備のもとで五虎大将軍に任命され、漢中攻略戦で活躍します。また、曹操の子・曹丕が蜀を攻撃するとき、その一部を担う予定だった羌族が馬超を恐れて攻め込まなかったという逸話もあり、馬超は史実より長生きしたようです。死の場面は描かれていませんが、北伐の際に諸葛亮が馬超の墓を訪れるシーンが盛り込まれています。

曹操に反旗を翻し戦い続けた

父の地位と軍勢を受け継いで台頭したものの、曹操と対立して一族を殺されるという悲しい道を辿った馬超。曹操をあと一歩というところまで追いつめたことから、馬超はその勇猛さを天下に知らしめることになりました。しかし、劉備に降伏して以降は目立った戦功はなく、累進してその生涯を終えます。もし「離間の計」にはまらず曹操を倒していたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。

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