渋沢栄一は誰もが知る有名企業や銀行を創設した実業家です。約500の企業と約600の社会公共事業に関わり、その功績から「日本経済の父」「日本資本主義の父」と呼ばれています。令和3年(2021)のNHK大河ドラマ『青天を衝け』は渋沢が主人公となりますが、日本を代表する経済人はどのような人生を送ったのでしょうか?
今回は、渋沢が幕臣になるまでの経緯、官僚から実業家への転身、徳川慶喜との関係、彼が残した功績などについてご紹介します。
一橋慶喜に仕官するまで
渋沢は動乱の幕末にうまれました。その幼少期から青年期について振り返ります。
幼いころから商才を発揮
渋沢は天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市)で、父・渋沢市郎右衛門元助と母・エイの長男として誕生しました。実家は藍玉(染料の一種)の製造販売や養蚕、米や野菜などの生産を手がける豪農で、14歳のころには一人で仕入れするほどの商才を発揮したといいます。このときの経験が海外の経済システムを吸収するのに役立ち、のちの合理主義思想に繋がったようです。その一方、幼いころから父の影響で読書を始め、従兄弟・尾高惇忠のもとで『論語』や『日本外史』を、大川平兵衛からは剣術・神道無念流を学びました。
尊王攘夷の志を抱く
文久元年(1861)江戸遊学に出た渋沢は、儒学者・海保漁村の門下生となり、また北辰一刀流の道場に入門します。勤皇志士との交流で尊王攘夷思想に傾倒した彼は、高崎城から武器を奪って横浜を焼き討ちし、長州と手を結んで幕府を倒すことを計画。しかし、この企みは惇忠の弟・尾高長七郎の懸命な説得により中止されました。その後、八月十八日の政変の影響で勤皇派が失速するなど志士活動に行き詰まった渋沢は、付き合いのあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙で一橋慶喜に仕官します。慶喜にほれ込んだ渋沢は家政の改善に尽くし、次第に認められていきました。
フランスへの渡航
慶喜に仕官するようになった渋沢は、農民身分から一転、武士の身分を手に入れました。そしてその先には、さらなる転機が待ち受けていたのです。
慶喜の将軍就任により幕臣に
慶応2年(1866)主君の慶喜が徳川家を継ぎ、二条城での将軍宣下を受けて第15代将軍に就任します。それに伴い家臣団は幕臣となり、渋沢は陸軍奉行支配調役という役職に就きました。このとき渋沢はあの新選組とも仕事をしています。幕臣・大沢源次郎が京都に駐在しながら薩摩と通じて謀反しようとしているとの情報が入り、渋沢は新選組局長・近藤勇と面会して大沢の捕縛について話し合いました。捕縛は副長・土方歳三率いる4人の隊士が担当。新選組トップの近藤や土方が自ら出向いたのは、陸軍奉行である渋沢の依頼が特別だったからのようです。
パリ万国博覧会を視察する
その後、渋沢はパリ万国博覧会の日本使節団の一員に選ばれます。慶喜の異母弟・徳川昭武の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書きを得た渋沢は、フランスへ渡航しパリ万博を視察。また昭武とともにヨーロッパ各地を訪問し、先進的な産業や軍備などを目の当たりにし感銘を受けました。ここで学んだ株式会社や銀行の仕組みが、渋沢の人生を大きく変えることになります。このとき渋沢に語学を教えた通訳のアレクサンダー(シーボルトの長男)とは帰国後も交流が続き、のちには渋沢の事業の協力者となりました。
官僚から実業界へ
フランスから帰国した渋沢は、官僚から実業家へと大きく転身します。そして多くの功績を残したのです。
大蔵省の官僚として尽力
帰国後、渋沢が目にしたのは明治維新により様変わりした日本の姿でした。静岡で謹慎していた慶喜に面会した渋沢は、今後は自分の道を進むように言われ、明治2年(1869)1月に静岡で商法会所を設立します。これは、新政府からの拝借金返済と同時に株式会社制度を実践するものでした。ところが大隈重信に説得され同年10月には大蔵省に入省。その後は国立銀行条例制定に携わったり紙幣寮(印刷局)の初代紙幣頭に就任したりと活躍しましたが、予算をめぐって大隈らと対立したことから明治6年(1873)には退官しました。
500社以上の会社設立に携わる
退官後は第一国立銀行(現・みずほ銀行)の頭取に就任し、それ以降は実業界に身を置くようになります。ここでの渋沢の活躍は目覚ましく、多くの地方銀行や東京証券取引所、東京瓦斯(現・東京ガス)、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、王子製紙(現・王子製紙、日本製紙)など、さまざまな会社の設立に携わりました。その数は500以上といわれており、現在でもよく知られる企業ばかりです。また、社会事業や慈善事業、教育にも力を入れました。
社会に多大な影響を与える
さまざまな功績を残した渋沢は、多くの人から尊敬される存在となりました。明治20年(1887)ごろには彼を慕う経営者たちによる「龍門社」が組織され、その会員数は数千人ともいわれます。また、財界引退後に渋沢が創設した「渋沢同族株式会社」を中心とする企業が、「渋沢財閥」と呼ばれることもあったようです。このように社会に多大な影響を与えた渋沢でしたが、昭和6年(1931)11月11日、激動の人生に幕を閉じました。
渋沢栄一と徳川慶喜の関係
令和3年(2021)の大河ドラマ『青天を衝け』では、渋沢と慶喜の関係性もクローズアップされます。二人はどのような関係にあったのでしょうか?
隠居した慶喜の数少ない話し相手だった
渋沢と慶喜の交流は、慶喜がこの世を去るまで続きました。戊辰戦争の終結により謹慎を解かれた慶喜は、引き続き静岡に住み、隠居手当で趣味に没頭する生活を送ります。仕事を失い困窮した旧幕臣の中にはそんな慶喜を恨む者もおり、会うのは渋沢ら一部の人間だけだったそうです。その後、東京に移住した慶喜は貴族院議員として政界に復帰するも8年ほどで辞職。渋沢は隠居生活に入った慶喜の経済支援を行い、慶喜はその恩を忘れないよう家人に言い残したといいます。幕末時代から慶喜を敬愛し続けた渋沢は、隠居した慶喜の数少ない話し相手だったのでしょう。
慶喜の伝記『徳川慶喜公伝』をつくった
明治26年(1893)ごろ、渋沢は慶喜の伝記を企画し、乗り気ではなかった慶喜を説得して直話を聞く「昔夢会」を開きました。ここでの資料をもとに、大正7年(1918)『徳川慶喜公伝』全8巻が刊行されます。鳥羽・伏見の戦いでの敵前逃亡や江戸無血開城により逆賊と酷評された慶喜ですが、名誉を回復したいと考えていた渋沢は伝記にて慶喜の決断を評価し敬意を示しました。現在では慶喜の評価が見直され、日本の独立を守った名君ともいわれています。また、この『徳川慶喜公伝』は大河ドラマ『徳川慶喜』の制作における基礎資料にもなりました。
日本資本主義の父と呼ばれる渋沢の功績とは?
渋沢はその功績から「日本資本主義の父」と呼ばれています。彼はどのような功績を残したのでしょうか?
日本初の株式会社を設立した
明治2年(1869)渋沢は静岡に「商法会所」を設立しました。これは官民合同で出資を募り、商法会所を通じて販売を行う組織です。身分に関係なく出資できるのが特徴で、いわば日本初の株式会社でした。この組織はのちに東京商法会議所となり、現在の東京商工会議所へと変わっていきます。
渋沢がこのような組織を作ったのは、フランスへの渡航で合本組織(現在の株式会社)の存在を知り感銘を受けたからです。渋沢はこれを日本でも実践したいと考え、合本組織を根付かせることで日本経済の発展に寄与しました。
創業した主な企業・機関とは?
渋沢は生涯で500以上の株式会社の創業や経営に関与しており、その中には大企業も多数含まれています。渋沢が創業した企業にはどのようなところがあるのでしょうか。ここでは代表的なものをご紹介します。
東京証券取引所
株式会社の成立に重要な役割を果たしているのが証券取引所です。株式会社は株式を発行して出資金を集め、投資家はその株に投資して事業に参加できます。これを取りまとめるのが証券取引所の役割です。
渋沢はフランスで株式取引所を見学し、株式会社と取引所の仕組みに感嘆します。そしてその後、大蔵省で株式取引所の設立に取り組むことになりました。これは日本での株式会社制度導入の為に必要なものだったのです。
第一国立銀行(みずほ銀行)
銀行口座を誰しも一つは保有していると思いますが、この銀行という組織を日本で初めて作ったのも渋沢です。
渋沢は「国立銀行条例」の制定に携わり、明治6年(1873)6月11日に第一国立銀行(現在のみずほ銀行)を創業しました。みずほ銀行の金融機関コードが「0001」となっているのは、日本初の銀行だからです。
東京瓦斯(東京ガス)
渋沢は日常生活に大きく関わる会社も創業しています。それが東京瓦斯(東京ガス)です。
近年ではオール電化などガスを利用しないこともありますが、当時の渋沢は「近代化にガスは必要不可欠」と考え、ガス事業に乗り出しました。明治初期は東京府(今の東京都)が行っていたガス事業ですが、明治18年(1885)民間企業の東京瓦斯が誕生したのです。
社会貢献活動にも尽力
渋沢の功績は会社の創業や経営だけにとどまりません。それ以外にも多くの社会事業に貢献していたのです。
多くの大学設立に協力する
社会活動に熱心だった渋沢は教育にも力を入れ、「商法講習所(現一橋大学)」「大倉商業学校(現東京経済大学)」など多くの大学設立に協力したほか、「二松學舍(現二松學舍大学)」の舎長にも就任しました。
また女子教育の必要性も重視し、伊藤博文や勝海舟とともに女子教育奨励会を設立。日本女子大学校や東京女学館の設立にも力を注いでいます。
貧困と飢餓を救済した
渋沢は東京市からの要請で東京養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)という公立救貧施設の院長も務めていました。明治維新が起こったこの時期、社会体制の崩壊や災害によって多くの人が貧困と飢餓に苦しんでいたのです。実業界を退いた後も彼はこの施設で活動を続け、身寄りのない人や路上生活者、障害のある人などを救済し続けました。
倫理と経済の両立を果たす
渋沢には経営理念がありました。彼の思想はどのようなものだったのでしょうか?
「道徳経済合一説」を打ち出す
大正5年(1916)に著した『論語と算盤』の中で、渋沢は「道徳経済合一説」という理念を打ち出します。これは幼少期に学んだ『論語』をもとにした理論で、「倫理と利益の両立を掲げて経済を発展させ、富は独占せずに全体で共有して社会に還元する」と説くものでした。
渋沢は、富をつくるのは仁義道徳であり、欺瞞(ぎまん)・不道徳・権謀術数的なものは真の商才ではないと述べています。彼は私益よりも国益を考えて動いていたことがわかります。
ドラッカーも認める人物!
明治期には財閥を作るほどの有名な経済人が多く輩出されましたが、渋沢はその中でも財閥を作らなかった人物です。ここには己の利益を追求せずに公益を図るという彼の経営哲学が反映されていたのでしょう。
経営学の巨匠といわれるピーター・ドラッカーは、社会的責任を意識した渋沢の姿勢を高く評価し、彼は誰よりも早く経営の本質は責任だということを見抜いていたと述べています。
2024年から1万円紙幣の顔に
渋沢は株式会社の仕組みを日本で根付かせ、近代日本経済を発展させました。その功績から、過去2回ノーベル平和賞の候補になっています。紙幣の顔としても何度か候補にあがりましたが、偽造防止の観点から毎回採用を見送られていました。しかし令和6年(2024)からはついに1万円札の顔になります。来年の大河『青天を衝け』とともに、渋沢の功績を振り返ってみてはいかがでしょうか?