北海道は、2018年に命名150年を迎えました。これを記念し、「ほっかいどう百年物語」という番組でこれまで数多くの北海道の偉人たちを紹介してきたSTVラジオによる連載企画がスタート。第6弾は、NHK朝の連続テレビ小説「マッサン」のモデルにもなった”日本のウィスキーの父”「竹鶴政孝」です。
竹鶴政孝は大正期、ウィスキー誕生の地スコットランドへ乗り込んでウィスキーの製造技術を持ち帰り、ニッカウヰスキーを興した人物で、後にイギリスの副主相から「万年筆一本で、我が国のウィスキーの秘密を盗んでいった青年がいた」と賞賛された、日本のウィスキーの父と呼ばれる人物です。
日本の洋酒の歴史は明治の文明開化とともに始まりました。初めての輸入洋酒は、明治3年のジンでした。翌年にはウィスキー、続いてブランディー・ラム酒などが輸入されましたが、その輸入量は微々たるもので値段も高く、もっぱら在留外国人の飲み物に過ぎませんでした。
一方国産の洋酒は、同時期の明治4年に登場していますが、リキュールといっても、中性アルコールに砂糖と香料を加えただけの、「イミテーション洋酒」でした。「本物の洋酒を日本で作りたい」いつしか醸造に携わる人々の間で、こんな言葉がささやかれるようになりましたが、その殻を破った男が、竹鶴政孝だったのです。
造り酒屋の家に生まれる
竹鶴は明治27年、広島県竹原市に生まれました。竹鶴家は、竹原市の三大塩田地主のひとつで、また造り酒屋でもありました。製造している酒の名前も「竹鶴」。酒の名前と蔵元の名前が同じなのは、全国でもここだけです。それは、明治維新で姓を受ける際に、役場が酒の名前と気付かずに本名にしたため、という理由からでした。
父は酒蔵の中を歩き回る竹鶴を見つけると、こう言い聞かせました。
「いいか、よく覚えておくんじゃぞ。酒はな、いっぺん死んだ米を、こうしてまた生き返らせて造るもんじゃ」
父の大きな手に抱えられ、背丈の数倍もある仕込桶を覗かせてもらうと、むせかえるような甘酸っぱい匂いが立ち昇り、表面は無数の泡に覆われている。竹鶴は、音を立てて湧き上がる泡が大好きでした。
少年時代はかなりの暴れん坊で、生傷が絶えませんでした。中でも、8歳の時に階段から転げ落ちて鼻を強打し、失神。しかし、このけがのあとから鼻がよく通るようになり、酒類の香りというものを、人一倍利き分けられるようになったのです。
ウィスキー造りの道へ
家業を継ぐべく大阪の工業高校醸造科に入学したものの、日本酒ではなく洋酒に興味を持ち始めたため、竹鶴は卒業を待たずに、当時日本の洋酒業界の第一人者と言われていた攝津酒造へ押しかけました。攝津酒造の阿部社長は竹鶴に聞きました。
「君は酒屋の息子はんや。そやのに、なんで清酒でのうて洋酒に興味を持ちはるんや」
「それは・・・新しい酒やからです。学校でしてきた醸造の勉強を、洋酒造りで試してみたいと思うたからです。清酒はすでに伝統が出来あがっているけど、洋酒は日本で始まったばかりやと聞いています」
大正5年、攝津酒造に入社してからは、ウィスキー造りの魅力にとりつかれ、寝食を忘れて働きました。毎日が発見の連続で、ロンドンから発行されたレシピを手に工場の試験室に閉じこもり、研究を続けました。その甲斐あって、竹鶴は入社後間もなく主任に抜擢されたのです。
当時手掛けていた有名銘柄のひとつに、寿屋(現在のサントリー)の赤玉ポートワインがありましたが、竹鶴の担当となったこの年の夏、各地の店頭で葡萄酒が爆発する事件が起こりました。不充分な殺菌のため、中で生き残っていた酵母が、暑さで発酵してしまったのです。しかし、赤玉ポートワインだけは1本も割れず、その高品質が広く知られるようになりました。「今度の技師さんは腕がよろしゅうおますな」寿屋の鳥居社長も賞賛しました。
年は明け大正6年、竹鶴は突然阿部社長に呼ばれました。
「なあ竹鶴君、本場スコットランドでモルト・ウィスキーの造り方を勉強してみよういう気はあらへんか。わしはいつまでもイミテーションで通用するとは思うとらんのや」
もちろんウィスキーと呼ぶ代物がまがいものにすぎないことは、醸造に携わっている竹鶴自身がよく知っていました。しかし本当のウィスキー造りは、学校時代に習った教科書の世界に過ぎず、叶わぬものと諦めた夢でした。
「喜んで行かせてもらいます。外国製品に負けない、国産の本格的なウィスキーを造る技術を学んできます」
大正7年、竹鶴は万年筆と日本のウィスキーの未来を携えてひとりスコットランドに向けて船に乗り込みました。知り合いもおらず、言葉の壁も厚いイギリスで、きっと大きなものをつかんでみせる。こう決心して留学に挑んだ竹鶴は24歳でした。
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