織田信長に見出された千利休
天正3年(1575年)信長は大阪・堺で熟達の茶人、津田宗久、今井宗久、千利休の3人を召し抱えます。
利休は、この時なんと54歳。歴史の表舞台に姿を現すにはあまりにも遅いと言えます。
信長に召し抱えられる前は、貸し倉庫や問屋業を生業としていました。ですから、当時高価な茶道具は持っていなかったとされています。
では、一体どうやって茶の湯の知識や見識を身に付け、後の世に茶聖と呼ばれるまでに大成したのでしょうか。それには理由があります。
利休は他人の茶会で目にした茶道具の形や色を和紙に茶器として形取り記録し、学んでいました。利休はその卓越した観察眼と真理眼で物の良し悪しを判断していたようです。家臣に与える茶器を大量に集めようとしていた信長にとって、大変重要な人物であったのでしょう。
千利休と羽柴秀吉の名コンビ
天正14年(1586)年、秀吉は和睦のため、家康に大阪での会談を申し入れます。
家康は会談にこそ応じたものの、一万の軍勢を引き連れており、内容次第では対立を続けるという姿勢を見せました。そんな家康に対して秀吉は、会談に先立って京都に到着した家康を出迎えたのです。
この時、秀吉が伴っていたのが千利休です。秀吉の狙いは、自らが出迎えることで家康の面子を立て、茶の湯という非公式の場で敵意がないことを示そうというものでした。茶の席で家康に礼を尽くし、自分こそが信長の後継者だと知らしめるためです。
その茶会の翌日、家康は大阪で会談し、秀吉の器の大きさを認め、和解が成立したのです。これ以後、秀吉は茶会を一種の政治手段として活用し、利休を側近として扱うようになります。
千利休はなぜ切腹へと追い込まれてしまったのか
九州征伐以後、関白となった豊臣秀吉に対し、配下の諸大名達は物を申すことが出来なくなっていきます。そんな中、秀吉に唯一耳の痛い事を言えるのが、利休でした。
蒲生氏郷や徳川家康、前田利家など諸大名達は、一茶人である利休の元に相談をするようになります。
秀吉側からすると、諸大名達の政治のネットワークが出来たようにも見え、次第に秀吉の中に猜疑心が産まれていったのです。
そして、二人の仲を引き裂く事件が勃発します。
秀吉の機嫌を損ねたという理由で、利休の愛弟子が秀吉により処刑されてしまったのです。これを機に、利休と秀吉との間の溝はますます深まっていきます。
天正19年(1591)年2月13日、利休は謹慎処分をくだされます。
大徳寺で自身の木像の下を秀吉に通らせた件などもあり、このままでは切腹を申し付けられてしまうと、利休から茶の道を学んだ諸大名達は奔走しました。秀吉の正室である寧々らも利休に謝るように助言を行いますが、利休は「茶の湯で天下に名をあらわした私が、命が惜しいからとて女性たちに頼ったとあっては無念でございます」と、一茶人としての誇りを貫き、ついに秀吉から切腹を申し付けられます。
そして2月28日、降りしきる雨の中、3千人の兵が利休の屋敷を取り囲みます。切腹を申し付ける使者にも最後に茶を点て、もてなしたそうです。
死後、利休の首は一条戻橋でさらし首にされました。
「かつての日々を思い出すと涙が流れます。悪い天気もいつかはよくなりましょう。悲しい気持ちです」
(千利休の書状より)
切腹される利休が書いたとされる手紙です。
この手紙の文を読んで、とても哀愁を感じるのは私だけでしょうか。
人の心はままならないとはよく言ったものです。疑いや誤解などに囚われてしまうと相手の真意を曲解して見てしまい、喧嘩別れを起こしてしまう。
利休は「茶人」という芸術家の自尊心から、秀吉は「天下人」としての自尊心から素直に謝ることが出来ず、利休は切腹まで事至ってしまったのです。
もし相手の立場を想い、茶の席で一個人として謝る事が出来ていれば、また違った歴史があったのかと思い馳せます。
参照元
手紙で読む千利休の生涯
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