歴人マガジン

【今こそ評価したい】マムシを殺した男・斎藤義龍(高政)が、長生きしていたら?

「美濃のマムシ」の異名をとる斎藤道三(利政)。戦国時代の大名として、一般にもよく知られる道三だが、その息子・斎藤義龍(高政)のことは、あまり良く知られていない。(※)
※道三は利政、義龍は高政など複数の名前を名乗ったが、以後は道三、義龍で統一する。

大河ドラマ『麒麟がくる』で、伊藤英明が熱演しているのを見て、初めてその存在を知ったという人も、なかにはいらっしゃるかもしれない。

1556年(長良川の戦い)当時の美濃・尾張の情勢

ただ、昔から『国盗り物語』をはじめ、道三を扱ったドラマなどには必ず登場していたし、それらの作品を観た人であれば「ああ、道三を殺した息子か!」と即座に分かるとは思う。それでも世間では「父殺しの悪人」ぐらいのイメージで、あまり評価されていない観がある。

あの「美濃のマムシ」を討った義龍、もっと注目されても良いのではないだろうか。今回は、その数奇な生涯や活躍を追い、検証してみたいと思う。

なぜ、父・道三に刃を向けたのか?

通説によれば、天文23年(1554)、義龍は道三から家督をゆずられて稲葉山城主となった。義龍が歴史の表舞台に出てくるのはこの時からで、すでに28歳(26歳説も)。その間、彼がどう過ごしていたのかを裏付ける史料はほとんどない。

身長六尺五寸(約197cm)の大男であったとか、父親は道三ではなく土岐頼芸だったという説もあるが、いずれも後世の江戸時代に作られた史料によるもので信ぴょう性には乏しい。

そもそも道三が隠居したことや、義龍に家督を譲ったという話、義龍の母と噂される深芳野(みよしの)の名も、同時代の史料『信長公記』などには、いっさい出てこないのである。よって、ここでは敢えてそのあたりには深く触れず、先へ進もう。

岐阜城(かつての稲葉山城)から見た、城下の様子

『信長公記』には「父子四人とも稲葉山城に住んでいた」とある。家督相続の話も出ていない。ひょっとすると道三は死ぬまで義龍には家督を譲ろうとはしておらず、それを義龍が恨みに思っていたという見方もできる。

道三が寵愛した、弟ふたりを謀殺

父子四人とは、道三と義龍のほか、道三の次男・孫四郎(龍重)と、三男・喜平次(龍定)のことだ。道三は義龍を「耄者」(ほれもの※)と言って軽んじ、喜平次に一色(いっしき)の姓※を名乗らせ、跡継ぎにしようと考えていたという。「知恵の鏡も曇り」(『信長公記』)とあるように、道三も寄る年波か、判断力を鈍らせていたのかもしれない。
※ボケ、愚か者というような意味
※一色(いっしき)氏は、美濃守護・土岐氏の祖先にあたる名族

それを知った義龍は城内の奥屋敷へ引きこもり、寝込んでしまう。そして「自分は病を得て、もう長くない。対面して一言申しておきたいことがある」と、弟たちに使者を送り、屋敷へ呼んだ。

遺言でも聞いてやろう、と弟の孫四郎、喜平次らがやってきたが、これは病気をよそおった義龍の策略だった。ご馳走を出して安心させておいて、2人を斬らせたのである。道三が城を留守にした隙を突いた見事な「謀反劇」だった。

これを知った道三はびっくり仰天。次男・三男を斬られ、稲葉山城にも帰れなくなった。窮した道三は、ただちに軍勢を集めた。包囲の手が迫っていたのか、撤退にかかると、町はずれから放火して稲葉山の城下町を焼き払い、北の山県郡(岐阜県山県市)の山中へ逃げた。

さすが、ただでは転ばぬ道三。城下町を焼かれ、乗っ取ったばかりの稲葉山城が裸城にされてしまったのは、義龍にとっては痛手だっただろう。ここまでが天文24年(1555)のことである。

この道三追放の謀反劇は、大河ドラマで描かれているとおり、美濃の国衆たちの意思が強く反映されたもので、それに義龍は応えたものともいう。『信長公記』にも、道三は残虐な振る舞いが多いと記されており、家臣たちへの求心力が低下していた様子を伺わせる。

斎藤義龍禁制(岐阜市史より)

「長良川の戦い」で、父を討つ

翌弘治2年(1556)4月20日、道三と義龍の軍勢は長良川(ながらがわ)を挟んで対峙した。北に道三、南に義龍であり、つまり稲葉山城はすでに義龍が押さえ、道三は山県郡から南下してきたようだ。

一般に義龍軍は道三軍の7倍ほどの兵力を集めたようにいわれるが『信長公記』は兵力を記さない。むしろ道三側のほうが竹腰や長屋といった義龍方の将を討つなど、優位に戦いを進めていたように書かれている。稲葉山を丸裸にし、野戦に引きずり込んだ道三の戦略であったのかもしれない。

だが、突如戦局が変わったようだ。ついに道三は川沿いにもうけた本陣まで攻め込まれ、長井道勝との斬り合いになった。道三は刀を振り下ろすが押し上げられ、横合いから来た小牧(小真木)源太にすねを斬られ、倒れた隙に首をとられてしまった。

『武将感状記』によれば、義龍の見事な戦いぶりに、道三は初めてその器量を認識したという。やはり判断力が鈍っていたのか、よほど義龍と不仲であったのか。

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