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【中国大返し】約10日で200kmを走破!?豊臣秀吉の大強行軍の概要

【中国大返し】約10日で200kmを走破!?豊臣秀吉の大強行軍の概要

豊臣秀吉は農民から織田家臣に上り詰め、織田信長の後継者となりました。明智光秀のライバルとしても知られているため、大河ドラマ『麒麟がくる』でもどのように描かれるか注目されるところでしょう。秀吉は山崎の戦いで光秀を敗走させ天下人へコマを進めましたが、この戦いの成功の裏には大きな努力がありました。それが大強行軍として有名な「中国大返し(ちゅうごくおおがえし)」です。
今回は、中国大返しの背景や経緯などについてご紹介します。

中国大返しの背景

秀吉はどのような理由から中国大返しをしたのでしょうか?その背景を振り返ります。

備中高松城攻めの最中だった羽柴秀吉

月岡芳年による、『高松城水攻築堤の図』です。

秀吉は信長から中国平定を任されており、毛利方の諸城を次々と落として、清水宗治が守る備中高松城を攻撃している最中でした。秀吉は備中高松城を水攻めで孤島状態にしたため、毛利輝元の援軍もなす術がなく、両者は講和することになります。こうして毛利家の外交僧・安国寺恵瓊と、秀吉の側近・黒田官兵衛が和議条件の交渉を行いますが、その最中に本能寺の変が勃発したのです。

本能寺の変、勃発!信長の横死を知る

秀吉が信長横死の知らせを受けたのは、本能寺の変の翌日でした。『太閤記』では光秀が毛利氏に送った密使を捕縛したところからこの事実が発覚したとされていますが、『常山紀談』には秀吉の配置した忍びが怪しい飛脚を生け捕りにしたことで信長の死がわかったという記載があり、さまざまな説が存在しているようです。いずれにせよ、この知らせは秀吉にとって大事件だったに違いありません。

追撃を阻止!猛スピードで撤退

信長の死を知った秀吉は、備中高松城からの撤退を決意します。そして、用意周到に事を進めていきました。

信長の死を隠して毛利氏と和睦

当初は信長の死に激しく動揺したといわれる秀吉。そんな彼に家臣・官兵衛は「天下を取る機会が訪れた。輝元と和睦して光秀を討つべし」と献策したといいます。この策には一刻も早い上洛が必要だったため、秀吉は信長の死を秘匿したまま、条件を譲歩して早急に毛利側と講和しました。その条件の一つは宗治の切腹で、宗治は備中高松城の兵士の助命を条件に自刃。秀吉はこれを見届け、東方への撤退を開始します。

陣を引き払い備前沼城を目指す

備中高松城の陣を引き払った秀吉がまず目指したのは備前沼城でした。姫路までは山陽道の野殿を経由するルートだったと考えられており、この区間は毛利方の追撃を免れるためにスピードが重視されたようです。備中高松城から備前沼城までは約22kmで、秀吉軍はこの道のりを重装備で行軍。日付については諸説ありますが、一説には野殿を過ぎた場所で野営し、その翌日昼すぎに沼城に到着したといわれています。その後、秀吉は毛利軍に備えて宇喜多勢を残し、本拠地の姫路城に急ぎました。

山陽道の難所を越えて姫路城へ

梅林寺所蔵の中川清秀像です。

備前沼城と姫路城の間には「山陽道第一の難所」とされる船坂峠があります。秀吉軍は暴風雨に見舞われながらこの難所を通過し、増水した川を渡って先に進みました。備中高松城から姫路城までは約90kmで、秀吉軍はこれを1日半~2日で駆け抜けたことになります。中国大返しが日本史上に残る強行軍とされるのは、これが驚異の速さだったからでしょう。
秀吉はそんな状況の中で情報戦も行っており、摂津茨木城の城主・中川清秀からの書状に「信長・信忠父子は生きている」と返書しています。これは偽情報で先駆けを防ぎ、自分に有利になるよう事を進めるための作戦でした。

慎重なものに変化した行軍

姫路城に到着した秀吉軍は、光秀軍の伏兵を警戒しながら行軍を続けます。また、その道中で次々と諸将を味方につけました。

洲本城を攻略し尼崎に着陣

姫路城の留守居役を浅野長政に任せた秀吉は、残りの全軍を率いて出発します。その一方で別働隊を進軍させ、明智方に味方する可能性があった菅達長の守る洲本城を攻撃。また播磨・摂津の国境付近に岩屋砦を建てましたが、これは光秀の摂津方面への移動を危惧しての行動だったようです。
明石を経て兵庫港近くで野営した秀吉軍は、翌日朝に出発し、その日のうちに摂津尼崎に到着。秀吉は尼崎の栖賢寺で、信長の弔い合戦に臨む決意として自身の髻(もとどり)を切ったといわれています。

義戦を宣言し諸将を味方につけた

明智討伐軍の名目上の総大将は、信長の三男・織田(神戸)信孝とされました。

秀吉は大坂に在陣中だった丹羽長秀、織田信孝、池田恒興らに尼崎着陣を伝えると、「これは逆賊を討つための義戦だ」と強調しました。この作戦は功を奏し、摂津の諸将らが次々と秀吉陣営に駆けつけたといいます。また、中国平定の司令官だった秀吉が無傷のまま帰還したことも、諸勢力を取り込むキッカケとなったようです。
野営にて作戦会議を開いた秀吉軍は、三軍にわかれて進撃することを決定。そこに大坂から信孝らが合流し、明智討伐軍が形成されました。

明智光秀の動向とは?

秀吉は驚異のスピードで中国大返しをしましたが、そのころ光秀はどのような動きをしていたのでしょうか?

近江の大半を制圧した

本能寺の変後、光秀は信長方の残党を捕らえ、京の治安維持に当たっていました。さらに、武田元明や京極高次らを派兵して近江をほぼ制圧。信長の居城・安土城を奪って財宝を家臣らに分け与えると、秀吉の本拠・長浜城や長秀の本拠・佐和山城なども占領しました。
また、光秀は諸将に協力を仰ぐ書状を送るなど、近江や美濃の国衆の誘降にも時間をかけたようです。しかし信長の武将のなかには光秀への服従を拒否する者もおり、すべてを思惑通りに運ぶのは難しい状態でした。

新体制作りに専念するが…

近江をほぼ平定した光秀は、朝廷から京都の治安回復を委任され上洛します。このとき光秀は、朝廷に銀貨を献上し、町には税金免除の特権を与えるなど、天下人として振る舞ったそうです。しかし、そんな彼もうまく諸将を味方にできなかったことは大きな誤算でした。盟友・細川幽斎(藤孝)は「信長の喪に服す」として剃髪し、中立の立場をとって光秀の誘いを拒否。再度誘ってもこの態度は変わりませんでした。また、光秀に恩義を感じていた筒井順慶も当初こそ派兵協力に応じたものの、結局、光秀の味方にはならなかったのです。

日本史上に残る大強行軍

中国大返しでは約10日で200kmを走破したといわれています。悪天候に見舞われたことなども考慮すると、20000人もの大軍が重装備でこの距離を駆け抜けたのは驚異だといえるでしょう。この中国大返しにより、秀吉は織田家臣のなかでいち早く信長の仇討ちを成し遂げました。そして、織田家の後継者問題を有利に進めることに成功したのです。もし秀吉がこれほど早く戻らなければ、天下人として君臨していなかったかもしれません。

 

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