「伊賀越え」は畿内(京都周辺)から伊賀国(現在の三重県西部)を経由して東国(現在の東海・関東地方)にいくことで、江戸時代までは交通の要所とされていました。本能寺の変が起こった際、徳川家康はこの伊賀越えで三河国まで帰還しています。家康は織田信長とつながりが深かったため、これは彼の歴史上に残る決死の逃亡となりました。
今回は家康の伊賀越えについて、本能寺の変勃発時の家康の動向、逃亡の経緯とそれを助けた人物、残された謎などについてご紹介します。
本能寺の変勃発時の家康の動向
本能寺の変が起こったとき、家康はどのように過ごしていたのでしょうか?当時の家康の動きを振り返ります。
織田信長の招きで堺を訪問していた
武田家の滅亡によって駿河を与えられた家康は、三河・遠江・駿河の三国を領することになりました。このお礼と武田戦の勝利を祝うため、家康は信長に招かれて安土城を訪問します。そして、その後は信長の勧めで上方を遊覧。家康は和泉国の堺などを楽しんでいました。
堺を遊覧中に本能寺の変が勃発!
そんな家康が信長の死を知ったのは、堺から京へと上洛する途中のことでした。家康は取り乱し、一時は信長の後を追っての自刃を主張するほどだったといいます。しかし、本多忠勝らの説得により帰国を決意。中には信長の弔い合戦を望む声もありましたが、家康は少数の供廻りしか連れていなかったため、どうすることもできませんでした。
神君伊賀越え!その経緯とは?
伊賀国を経由するルートで三河へ
家康一行は、伊賀越えをして伊勢から三河へ船で渡る最短ルートを選択しました。道中では山城国の土豪・山口甚介の宇治田原城や、近江国の土豪・多羅尾光俊の館などに宿泊。伊賀国に入ってからは伊賀の土豪たちの協力を得て先に進みました。一揆に襲われるトラブルもありましたが、甲賀郷士がこれを追い払ったことで難を逃れます。こうして家康一行は伊勢から三河の大浜まで船で渡り、無事に岡崎城に帰還したのです。
道中の供廻りはわずか34名
家康とともに行動していた供廻りはわずか34名でしたが、そのなかには徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)ら歴戦の武将も含まれていました。彼らは落ち武者狩りの一揆を脅したり、籠絡用にと家康から配分された金品を与えたりしながら、うまく道中を通過していったようです。大浜で家康を迎えた松平家忠は、「家康一行は約200人の雑兵を討ち取った」と書き記しています。
徳川家康を救った人物とは?
神君伊賀越えにはさまざまな協力者がいました。家康を救った人物とは、どのような人々だったのでしょうか?
豪商・茶屋四郎次郎清延
京都の商人・茶屋四郎次郎は、土豪たちに銭を渡して家康一行が無事に通過できるよう取り計らいました。そもそも堺に滞在中だった家康に早馬で信長の死を一報したのもこの人物です。
茶屋四郎次郎は公儀呉服師を世襲する京都の豪商で、当主が代々「茶屋四郎次郎」を襲名しています。家康を助けたのは初代の茶屋清延(ちゃやきよのぶ)で、彼は若い頃に家康に仕え、三方ヶ原の戦いなどでも活躍しました。彼は伊賀越えでの貢献以降、家康の御用商人として取り立てられたようです。
服部半蔵をはじめとする伊賀衆
伊賀越えの際、道中の加太峠には危険な野伏たちが潜んでいましたが、武装した伊賀衆の守りにより家康一行は無事に通過できたといわれています。
半蔵は徳川家譜代の家臣の子ですが、故郷の伊賀衆を動かしてさまざまな戦いで戦功をたてていました。伊賀越えの際も、伊賀者の救援を得て帰るという策を進言したのは彼だったようです。
無事三河に帰還した家康は、警護にあたった者たちを徳川家の隠密団として召し抱えました。半蔵は隠密頭となり、与力30騎、伊賀同心200人を束ねて活躍したといわれています。
伊勢商人・角屋七郎次郎秀持
伊勢から三河の大浜までの船を手配したのは、伊勢商人・角屋七郎次郎です。角屋七郎次郎は角屋家当主が代々名乗ったもので、家康を助けたのは初代とされる秀持でした。もともとは神職の家系で、彼の父・元秀が廻船問屋を開始し「角屋」と号する商人になったことから豪商へと成長したようです。
秀持は伊賀越えで家康を救ったことから、徳川氏の御用商人になっています。慶長5年(1600)には「汝の持ち船は子々孫々に至るまで日本国中、いずれの浦々へ出入りするもすべて諸役免許たるべし」と家康から喜ばれ、廻船自由の特権まで与えられました。
織田家の家臣たち
織田家の家臣のなかにも家康を助けた人物がいます。堺見物の案内役だった長谷川秀一は、家康一行の脱出経路を考慮したり大和国・近江国の国衆への取り次ぎを行ったりと伊賀越えの成功に貢献し、尾張国の熱田まで同行しました。
また、偶然堺にいた佐久間安政は、土地勘があることから家康に加勢して逃走を助けたといわれています。
伊賀越えにまつわる謎
さまざまな人の協力を得て危機的状況を乗り越えた家康ですが、この神君伊賀越えにはいくつかの謎も残されています。ここでは2つの俗説をご紹介します。
家康は明智光秀と共謀していた!?
『本城惣右衛門覚書』には、信長討伐に向かった光秀の部隊は最後まで目的を知らされておらず、信長の命令で家康を討つものだと思っていたという話が残されています。当時の家康はこのような危険にさらされていたと考えられますが、なぜかごくわずかな供廻りで安土城を訪問しました。慎重な性格だといわれる家康がこれほど少ない人数で行動していたのは、明智光秀と密約して共謀していたからではないかという見方もあるようです。信ぴょう性はありませんが、この共謀説は本能寺の変の動機の一つとしても考えられています。
旧武田重臣・穴山梅雪は家康に殺された?
家康の供廻りのなかには、穴山梅雪という武将がいました。梅雪は武田家重臣でしたが、武田氏の滅亡により家康の与力となった人物です。信長横死の知らせを聞いた梅雪は、家康を疑い、身の危険を感じて別行動をしたといわれています。しかし、そこで落ち武者狩りにあい落命。『老人雑話』には家康による殺害という記載がありますが、『東照宮御実紀』では光秀から家康追討の命を受けた一揆勢が家康と間違えて殺害したとあり、真実は謎に包まれています。
ピンチをチャンスに変えた
家康の生涯最大の危機は武田氏との合戦「三方ヶ原の戦い」だといわれますが、伊賀越えも家康にとっては大きなピンチでした。この難局を乗り越えられたのは多くの人物の手助けがあったからですが、そのような人脈に恵まれたのも家康の人徳あってのことかもしれません。この一件で家康に仕えた者もいることを考えると、家康はピンチをチャンスに変えたともいえるでしょう。
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