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【鎌倉幕府2代将軍:源頼家】幽閉・暗殺された悲劇の鎌倉殿の一生

【鎌倉幕府2代将軍:源頼家】幽閉・暗殺された悲劇の鎌倉殿の一生

鎌倉幕府は日本の武家政権として約150年間も栄えました。創始者の源頼朝は、執権の北条氏とともに幕府の勢力を高めたことで知られています。しかし、頼朝の跡を継いだ2代目将軍・源頼家は、その地位に反して悲劇の一生を送ったようです。彼の人生はどのようなものだったのでしょうか?

今回は、頼家のうまれから官位獲得まで、将軍職に就任したあとの流れ、伊豆修善寺への追放と幽閉、人物像などについてご紹介します。

後継者として期待された頼家

鎌倉殿の後継者として誕生した頼家。その生まれから官位獲得までについて振り返ります。

源頼朝の嫡男として生まれる

頼家は、寿永元年(1182)源頼朝と北条政子の嫡男として比企能員(ひきよしかず=源頼朝の乳母の甥)の屋敷で誕生しました。頼朝が鎌倉に入って3年目に生まれた頼家は、待望の後継者として大いに祝福されたといいます。政子の懐妊がわかったときには、安産を願うため、頼朝自ら監督を行い鎌倉・鶴岡八幡宮若宮大路を整備したそうです。頼朝にとってそれほど期待していた子供だったのでしょう。頼家の乳母父や乳母には、おもに比企氏一族の人間が選ばれました。

右近衛権少将に叙任

頼家は12歳で初めて鹿を射るなど武芸に優れていました。頼朝はこれを大いに喜び政子に使者を送りましたが、その報告を受けた政子は「武将の嫡子なら当前だ」として使者を追い返したといわれています。こうしたことにも厳しい態度を示す政子の性格は、日本三大悪女と呼ばれるに至る遠因にもなっているのかもしれません。

建久6年(1195)頼家は両親と妹・大姫とともに上洛し参内。都で頼朝の後継者として披露されました。その後は従五位上を与えられ、右近衛権少将に叙任されるなど、順調に出世していきます。

鎌倉幕府2代将軍として

生まれながらの鎌倉殿である頼家は、ついに鎌倉幕府2代将軍に就任します。しかし、華々しい活躍はできなかったようです。

家督継承し鎌倉殿に

建久10年(1199)頼朝の急死により家督を継承した頼家は、2代将軍に就任。大江広元(頼朝の側近で政所初代別当)らの補佐で政務を行いますが、3か月後には北条氏ら有力御家人による「十三人の合議制」がしかれ、訴訟を直接に裁断できなくなってしまいます。この制度は評定衆の原型となった集団指導体制で、政子の父・北条時政や、政子の弟・北条義時も名を連ね、北条氏は幕府の有力者として権力を増していきました。

この合議制に反発した頼家は、指定した若い近習(そばに仕える者)5人以外は自分への目通りを許可せず、これに手向かってはならないとの命令を出します。

侍所長官・梶原景時が失脚する

歌川国芳による梶原景時像です。

頼家の悲劇はさらに続きました。合議制設立から半年後、御家人66名が侍所長官・梶原景時を糾弾する連判状を頼家に提出。景時は頼家に抗弁せず所領で謹慎し、鎌倉に帰還後、政務復帰を嘆願します。しかし、結果は鎌倉追放となり、失意のなか京都へ上る途中で襲撃されました。九条兼実の『玉葉』によれば、彼は頼家の弟・千幡(のちの源実朝。以下、実朝)を将軍に擁立する陰謀があると頼家に報告し、ほかの武士たちに言い負かされたために追放されたそうです。景時は頼朝時代から重用している側近でしたが、頼家は彼を救うことができませんでした。

伊豆修善寺への追放と幽閉

将軍として実力を発揮できなかった頼家は、やがて将軍職から追放されてしまいます。晩年の頼家はどのように生きたのでしょうか?

頼家の急病と比企能員の謀殺

頼家が病の平癒を祈念して写経した『般若波羅密多心経』です。(静岡県三島大社所蔵)

体調不良から病が重くなった頼家は、危篤状態に陥りました。すると、そのあいだに弟・実朝が後継者になったという報告が鎌倉から都に届き、実朝に対して征夷大将軍の任命が要請されます。その使者が都に向かった前後、鎌倉では頼家の長男・一幡の外祖父である能員が時政によって謀殺され、比企一族が滅亡しました。『吾妻鏡』によれば、頼家と能員の北条氏討伐計画を立ち聞きした政子が事の次第を時政に報告し、先手を打つべく時政が能員を殺害したとされています。 一方、『愚管抄』によれば、病を患った頼家が子の一幡に譲位しようとしたため、能員の権力が増大することを恐れた時政が、能員と一幡の謀殺を企て軍勢を向けたということです。このとき一幡は逃れましたが、数か月後には捕まり、義時の手勢に刺殺されました。

執権・北条時政が実権を掌握

病状が回復した頼家は、この事件を知って激怒し、時政討伐を命じます。しかし、これに従う者はおらず、頼家は鎌倉殿の地位を追われ、弟・実朝にその座を奪われました。幼い実朝にかわり政務を行った時政は、広元と並んで政所別当に就き、建仁3年(1203)には初代執権にも就任。これにより幕府の実権を掌握していきます。

入浴中に暗殺される

歌川広重による、『六十余州名所図書会 伊豆 修禅寺 湯治場』です。

将軍職を追われた頼家は伊豆国の修禅寺に幽閉されました。この頃の頼家は、近隣の子供たちと山で遊びまわるなど面倒見の良い一面も見せていたようです。しかし、その翌年の元久元年(1204)北条氏の手勢による暗殺で死去。『愚管抄』によれば、入浴中に襲撃され激しく抵抗したものの、首に紐を巻き付けられ刺殺されたそうです。墓所は修禅寺の指月殿境内にあり、修善寺温泉街では例年「頼家祭り」が開催されています。

頼家の人物像とは?

政争により短命に終わった頼家ですが、史料によってその人物像は異なるようです。頼家はどのような人物だったのでしょうか?

『吾妻鏡』に描かれた頼家

北条氏編纂の『吾妻鏡』では、頼家は遊興にふける暗君として描かれており、死去の際もたった一文で終わっています。鎌倉幕府の2代目将軍にしては残念な印象をうけるでしょう。しかし、京都側の史料と比較すると、比企氏滅亡や頼家追放に関する記述には明らかな相違があるようです。そのため、『吾妻鏡』の頼家像は、北条氏が頼家をいさめるための政治的作為だとも考えられています。

頼家の政治能力の欠如は嘘?

十三人の合議制は頼家が家督を継承してわずか3か月後に成立しました。この制度は頼家の政治能力が欠如しているとの判断から作られましたが、頼家の政務期間があまりにも短いため、それが理由とは考えにくいようです。頼家が排斥された背景には、のちに実権を握る北条氏の陰謀があったといわれています。また、幕府成立に寄与した東国武士たちは将軍の独裁に不満を募らせていたため、これも理由の一つと考えられているようです。頼家は為政者として実力が発揮できないまま没したといえるでしょう。

待望の誕生から不遇の結末に

頼家は生まれながらの鎌倉殿として、期待と祝福のなかで誕生しました。しかし、2代将軍就任後は、権力闘争に巻き込まれ、最後は暗殺という不遇の死を遂げています。『吾妻鏡』の頼家像が北条氏によるねつ造だとすれば、頼家はどのような人物だったのでしょうか? 幼くして武芸に長けていたことを考えると、実際にはもっと有能な人物だったとも想像できます。もし父・頼朝がもう少し長く生きていれば、頼家の人生も変わっていたかもしれません。

 

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