【侠客:国定忠治】カリスマ性あふれる親分の生き様と人気の理由

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【侠客:国定忠治】カリスマ性あふれる親分の生き様と人気の理由

国定忠治(くにさだちゅうじ)は江戸時代後期の博徒として有名な人物です。上州から信州にかけて「盗区」として支配しており、幕府にとっては不遜な存在でしたが、大飢饉から農民を救済するなど侠客としての一面が人々の心を魅了しました。その生涯は「侠客物」として戯曲や講談で持ち上げられるなど現在でも親しまれています。忠次がそこまで人気を博す理由は何なのでしょうか。今回は、侠客として名を馳せた忠治の一生や逸話などをご紹介します。

侠客として知られる国定忠治の生涯

忠治の本名は長岡忠次郎といい、恵まれた家の生まれだったようです。そんな彼の人生を一変させたのは、賭場との出会いでした。

生まれから親分になるまで

忠次は、上野国佐位郡国定村(現在の群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の家で生まれました。11歳のときに父が死去し将来を嘱望されますが、やがて賭場に入り浸るようになると、17歳で人殺しをして人別帳(戸籍)から除名され無宿者となります。このため実家は弟である友蔵が継ぎました。

忠治は博徒の親分・大前田英五郎のもとに身を寄せたのち、紹介された百々(どうどう)村の紋次のもとへ行き、紋次の死後はその縄張りを継承します。天保5年(1834)には上州一裕福な親分といわれていた島村伊三郎を殺害して縄張りを奪い、関東取締出役に目をつけられることとなりました。その後は子分の文蔵を連れて大戸の関所を破ったり、信州へ落ち延びて賭場を荒らしたりしましたが、やがて上州に戻ると赤城山を拠点に再び一家を形成します。その後も日光例幣使街道の玉村宿を本拠地とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し血みどろの抗争を繰り広げるなど、忠治は関東取締出役にとって頭の痛い存在になっていたようです。

天保の飢饉と国定忠次

忠治が侠客と呼ばれるようになった大きな理由は「天保の飢饉」での行動です。忠治は賭博で得たお金で赤城山近くに住む人々を援助したり、農業用水として使用していた川の泥やゴミを取り除いたりしました。羽倉外記の『赤城録』によれば、赤城山麓には一人も餓死者がおらず、住民は赤城山に背を向けて寝られないくらい感謝したのだそうです。忠治の度重なる逃亡や潜伏を支えたのは地域の人々の支えがあったからといわれていますが、忠治はそれだけ人々から慕われていたのですね。

関所破りの罪で磔の刑に

国定忠治の墓
長野県権堂町、秋葉神社の境内にある国定忠治の墓です。

派手に暴れまわっていた忠治ですが、役人の追及がいよいよ激しくなると、一家を解散して逃亡する決意を固めます。弘化3年(1846)再び赤城山に戻りますが、その頃にはかつての勢いはなく、さらには中風(脳卒中)で半身不随になっていました。忠治は子分に後を託し隠遁(いんとん)しましたが、嘉永3年(1850)ついに逮捕され、江戸の勘定奉行・池田頼方のもとに送られた後に磔の刑となります。適用された罪状は「関所破り」でした。忠治には賭博や殺人などあまりに罪状が多かったため、一番罪の重いものが適用されたといわれています。

こうして41年の人生に終止符を打った忠治ですが、その遺体は3日間さらされた後、何者かに盗まれました。これは国定村の養寿寺住職・法印貞然が密かに供養したといわれ、関東取締出役が探索を強化すると貞然は遺体を別の場所に埋め直したそうです。現在では、群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と、曲輪町の善應寺に忠治の墓があります。また、長野県権堂町にある秋葉神社の境内にも、忠次にゆかりのある柳の木があったことから、墓が作られています。

武勇伝を元にした逸話

国定忠治
犯罪に手を染めながら、多くの逸話を残した忠次。カリスマ性のある親分でした。

数々の犯罪に手を染めた忠治ですが、飢饉の際に民衆を救った武勇伝を持つなど、人々を魅了するカリスマ性があったことは確かでしょう。そんな忠治には、武勇伝とともに語られる逸話が残されています。

剣術に自信があった忠次

忠治は剣の腕に自信があったため、その当時日本で一番だと評判だった「北辰一刀流」に乗り込んで道場破りをしようとしました。負けたら最後の真剣勝負でしたが、対峙した千葉周作は忠治の構えを見て勝負の結果を悟ると、早々にその場を立ち去ったといいます。この態度にもちろん忠治は怒りましたが、門下生たちに諭され命拾いしたことを悟ったのだそうです。相手の方が一枚上手だったようですが、堂々と道場に乗り込む勇気は目をみはるものがありますね。

『遠州侠客伝』に残る逸話

忠治が遠州を旅していたときのこと、堂山の龍蔵という親分の世話を受けずに旅籠に泊まったことがありました。他の親分のところに泊まる際は、食事から眠り方まで決められた礼儀作法に従うのが当然で、面倒だからといって世話にならずに泊まるのはマナー違反でした。彼らの世界は、同業者間で使う挨拶を一言でも間違えたら斬られても仕方ないというほどルールが厳しかったのです。そのため龍蔵は「面子を潰された」と激怒し、命を奪おうと追いかけてきました。しかし忠治は相手が龍蔵だとわかると、「忠治の伊勢参りだ。共をするか」と言い残し、顔色一つ変えずに去っていったといいます。予想外の展開に呆気にとられた龍蔵でしたが、後にはこの時の忠治の度胸の良さを振り返って褒め称えたそうです。

創作作品として語られる忠次の魅力

忠次地蔵
長野県須坂市、寿泉院の山門手前右側にある忠治地蔵です。

逸話が多い忠治は創作作品でも人気を博しています。後世まで語り継がれるということは、それだけ忠治に魅力があるという証拠でしょう。

大衆演劇では定番の演目に

忠治は芝居や映画の世界で多く描かれ、大衆演劇や新国劇では定番の演目になっています。忠治の演目が人気を博している理由の一つは、迫力のある剣劇です。アクションものの映画が爽快なのと同じように、これは見せ場の一つといえるでしょう。しかし何より大きな理由は、やはり侠客としての生き様が人々の心を打つからだといえそうです。忠治の活躍の裏には、権力者たちが貧しい人々を苦しめていたという背景があります。民衆の中にある怒りを鎮める数々の行動を取った、忠治のヒーロー性に魅力を感じるのかもしれませんね。

歌にもなった国定忠治

忠治は芝居などの演目だけではなく、歌にもなっています。時代劇映画『浅太郎赤城の唄』の主題歌として作曲された『赤城の子守唄』のほか、忠治を主人公にした『名月赤城山』などが有名で、新国劇・映画・芝居ではこれらの曲がよく流れました。また群馬県と栃木県で愛されている民謡の『八木節』は、忠治の一代記になっています。忠治は歌としても民衆の心をつかんだといえそうです。

よく知られた名セリフ

赤城山
忠次のセリフに出てくる赤城山の風景です。

強きを挫き弱きを助ける存在は、いつの時代も注目を浴び、人々から愛されますよね。忠治は多くの犯罪に手を染めましたが、その反面、義理人情に厚く自分なりの正義に忠実だったといえそうです。新国劇の演目でのセリフ「赤城の山も今宵限り、縄張りを捨て国を捨て、かわいい子分のてめえたちとも別れ別れになる首途(かどで)だ」が有名な忠治ですが、カリスマ性あふれるその生き様は、きっと後世にも語り継がれていくことでしょう。

 

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