「寺田屋事件」といえば、お風呂に入っていたお龍の機転で坂本龍馬が命拾いしたあの事件と思う方も多いのではないでしょうか。しかし本来の「寺田屋事件」あるいは「寺田屋騒動」とは、その4年前にあたる文久2年(1862)4月23日に起こった薩摩藩士の事件をさすようです。有馬新七や、西郷隆盛の弟・従道も関わっていた、薩摩藩士の「寺田屋事件」とは、どんな事件だったのでしょうか?
公武合体の島津久光 vs.倒幕の有馬新七
事件の主要人物となるのが、島津斉彬の死後、薩摩藩主・茂久の後見役として藩の実権を握った島津久光。もうひとりは、西郷隆盛や大久保利通らによって結成された薩摩藩内の尊王攘夷派グループ、精忠組のメンバーで、過激派として知られていた有馬新七です。
この頃、脱藩して京都に潜伏していた有馬は、ある計画を実行に移そうとしていました。その計画とは、諸藩の過激派志士と結び、大坂、京都にて挙兵することで幕府の大改革、つまり倒幕を実現しようとするもの。そこで有馬が武力蜂起のきっかけに利用することを目論んでいたのが、久光が藩兵千名を率いての上洛でした。
しかし、久光が思い描いていた幕政改革とは、あくまで雄藩連合体制による公武合体の推進。倒幕の意思など毛頭なく、4月16日に入京すると、有馬たち過激派志士の行動を“暴発”として抑え込もうとしたのです。
これに対し有馬たちは、幕府と協調路線をとる関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義を襲撃し、その首を久光に献ずることで、否が応でも武力蜂起を促そうと画策。襲撃を前に、彼らは当時薩摩藩の定宿であった京都・伏見の寺田屋に集結することとなりました。
事件勃発!有馬は…
そして、事件はついに起こります。過激派志士たちの暴発を防ぐため、久光は、有馬と同じく精忠組のメンバーである奈良原喜八郎ら鎮撫使9名を伏見へ派遣。当初は、寺田屋の1階で面会に応じた有馬ら、志士たちの代表者に説得を行いましたが、最終的に激しい斬り合いへと発展していきます。
このとき斬られた志士のうち、6名が死亡、2名が重傷。有馬は剣の達人として知られていましたが、格闘中に刀が折れてしまったことから、鎮撫使のひとりを壁に押さえつけ、「我がごと刺せ(自分ごと刺せ)」と仲間に命じ、背中から刀で貫かれ、相手共々絶命しています。
なお、2階にいた志士たちは、一時は防戦のため1階に降りてこようとしましたが、奈良原が刀を投げ捨ててこれに立ち塞がり、「同志討ちしたところで仕方がない」と必死に訴えたことから、戦いは沈静化します。
その後、2階にとどまっていた薩摩藩士21名を含む、志士たちの多くが投降。藩士の中には、西郷隆盛の弟で、明治政府では海軍大臣や内務大臣を歴任した西郷信吾(のちの西郷従道)、彼らの従兄弟で、日露戦争では満州軍総司令官として日本の勝利に大きく貢献した大山弥助(のちの大山巌)、西南戦争で西郷と運命をともにする篠原冬一郎(のちの篠原国幹)がいましたが、帰藩のうえ謹慎を命じられました。
浪士組結成のきっかけに!?
この事件をへて、朝廷の久光に対する信望は一気に高まります。さらに久光はその勢いのまま、勅使の大原重徳を擁して江戸に下ると、朝廷の威光を背景に幕府への圧力を強めました。その結果、一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永の政事総裁職就任をはじめとする、文久の改革を幕府に行わせ、自らが理想とする公武合体を推し進めることに成功したのです。
ちなみに、この事件以降、京都の治安は過激派浪士たちの活動により悪化の一途をたどります。そこで幕府は、京都の過激派浪士を江戸の浪士によって制圧するという、庄内藩出身の尊攘派浪士・清河八郎の提案を受け、浪士組を結成。これに参加した人物の中には、のちに新選組局長となる近藤勇、副長となる土方歳三、沖田総司の姿を見ることができます。
(スノハラケンジ)
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