中国史のなかでも絶大な人気をほこる三国志には、魅力的な人物が多く登場します。後世に書かれた小説『三国志演義』にはさまざまな脚色がみられますが、特にヒーロー的な描かれ方をされているのが関羽雲長です。死後に神格化もされた彼は、どのような人生を送ったのでしょうか?
今回は、関羽のうまれから黄巾の乱まで、その後の活躍と出世、最後の戦いとその後、関羽の人物像などについてご紹介します。
うまれから黄巾の乱まで
劉備の片腕ともいわれている関羽。まずは劉備との出会いまでの経緯を振り返ります。
河東郡解県でうまれる
関羽は延熹3年(160)、河東郡解県(現在の山西省)でうまれたといわれています。幼い頃から祖父・関審に『易経』や『春秋』を学び、これらを愛読していたそうです。山西省は塩湖がある土地で、地元の伝承によれば、関羽は横暴な塩商人を殺して官吏に追われ幽州涿郡に逃げたということです。その際に関羽と名を変えたともいわれています。
劉備・張飛との出会い
中平元年(184)、教祖・張角を指導者とした太平道の信者が、黄巾の乱という大規模な農民反乱を起こします。衰退気味だった王朝の後漢はこれに応戦する兵を募り、名を残すことになる武将が続々と集結しました。ここで関羽は、漢王朝の再興を目指す劉備と出会い、張飛とともに義兄弟の契り(桃園の誓い)を交わします。義勇軍として劉備の護衛官を務め活躍した関羽は、のちに劉備が平原の相になると、別部司馬(武官の地位)として部隊を指揮しました。
忠義を尽くし出世へ
関羽は劉備を君主として立てながら出世していきます。その忠義心はあの曹操をも唸らせるものでした。
曹操から厚遇を受ける
戦功により徐州を得た劉備は、呂布の裏切りにより本拠を奪われ魏の曹操を頼ります。呂布を倒した曹操は劉備を歓待したものの、劉備は宮中での曹操討伐計画に引き込まれ袁紹のもとに逃亡しました。劉備の裏切りにより関羽は曹操の捕虜となりますが、軍の副官的な立場である偏将軍に任命されるなどの厚遇を受けます。しかし関羽は、手柄を立てて曹操に恩返しをしたら劉備のもとに戻るつもりだと告げました。これを聞いた曹操はその義勇に深く感心したそうです。
諸葛亮の重用と赤壁の戦い
劉備が袁紹の元を去って荊州・劉表の元に身を寄せると、関羽もこれに同行しました。建安13年(208)「三顧の礼」で諸葛亮を迎えた劉備は、「天下三分の計」という策略を説かれます。これは中国全土の大半を支配していた曹操への対抗策で、まずは揚州の孫権と組み、曹操に対抗できる国を得てから曹操を攻撃するというものでした。この戦略のもとに孫権・劉備連合軍vs.曹操軍の赤壁の戦いが起こると、勝利した劉備は江南の諸郡を手に入れ、関羽は襄陽の太守に任命されました。また劉備の益州平定後は、荊州の軍事総督にも任命されています。
劉備が入蜀するも孫権と対立へ
その後、劉備は益州を平定して蜀(蜀漢)を建国し、諸葛亮の思惑通り天下三分の形勢が定まります。しかしこれは、劉備の勢力拡大を快く思わない孫権の警戒を招きました。孫権が劉備の荊州統治を認めていたのは、そもそも曹操への防備のためだったのです。孫権から荊州の諸郡の返還を求められた劉備は、遠回しにこれを断ります。これに苛立った孫権は荊州の諸郡を攻撃。関羽は3万の兵を率いて戦い、調略した武将たちによる反乱も引き起こして対抗しました。しかし、曹操が要害の地である漢中を手にしたことから、これに危機感をもった劉備は孫権と和解に至ります。
関羽の死とその後
魏・呉・蜀の三国時代に突入後、関羽はさらに戦功をあげていきました。しかし、ついには非業の死を遂げるのです。
樊城の戦いで奮闘するが…
曹操との戦いで漢中を得た劉備は漢中王を称するようになり、関羽は前将軍・仮節鉞に任じられました。その年、関羽は曹操の従弟・曹仁が守る樊城(はんじょう)を攻撃。その勢いは凄まじく、曹操は狼狽して遷都まで考えたといいます。しかし、曹操と孫権が密約を結んで劉備領を攻略し始めると形勢は一気に逆転。撤退した関羽は降伏するふりをして逃走しましたが、捕虜となり斬首されました。『蜀記』には、関羽を部下にしたいと考えた孫権が、側近から「それは危険だ」と諭され諦めたという記述が残されています。
仇討ち!夷陵の戦い
関羽の首は孫権から曹操のもとに送られ、曹操により手厚く葬られました。関羽を殺された劉備は、仇討ちの意を込めて孫権に対し夷陵の戦いを起こします。孫権から持ち掛けられた和議も拒否し自ら戦いに出た劉備でしたが、孫権軍の武将・陸遜の火計策にはまり大敗を喫しました。その後、関羽の子孫は蜀の滅亡時に一族皆殺しになったといわれています。また唐の時代には、中国史を代表する64人の名将「武廟六十四将」の1人として関羽が祀られました。
関羽の人物像とは?
劉備の右腕として活躍した関羽。その人物像はどのようなものだったのでしょうか?
強く賢い、文武両道の武将
関羽はさまざまな書物で「張飛とならび1万の兵に相当する武勇である」と評されています。また、孔子が編纂したといわれる歴史書『春秋』の代表的な注釈書である『春秋左氏伝』を好んでおり、暗唱もできたそうです。そんな文武両道の関羽ですが、自信過剰な一面があり、認めない相手を軽んじるところがあったといわれています。
『三国志演義』での描かれ方
小説『三国志演義』では、主人公的存在として描かれています。赤兎馬に跨り約18kgもある青龍偃月刀を構えるなど、華々しい描写とエピソードが満載です。曹操に勧められた酒が冷めないうちに董卓配下の猛将を斬ったという話や、曹操の捕虜となって投降する際に3つの条件を出したという話、また孫権軍に処刑されたあと敵将を祟り殺したという話などがあります。
死後は神様に?「関聖大帝」とは
死後、関羽は「関聖大帝」として神格化され、「武神」「商売の神」として信仰の対象になりました。これには政治的な理由もあり、時の権力者たちは統治手段の一つとして、忠誠を尽くした関羽を称えたようです。また、中国では関羽は算盤の発明者とされており、中国の商人や実業家から慕われる存在でもありました。現在では世界中に関帝廟が建てられ、商売繁盛や富の繁栄をもたらす神として崇められています。
今なお愛される忠義の武将
忠節と義理を重んじた関羽は、敵対していた曹操や孫権にも認められるほどの名将でした。非業の死を遂げなければ、さらなる活躍をして中国史を塗り変えていたかもしれません。関羽は三国志の中でも多くのファンをもち、中国のみならず日本でも高い人気を誇っています。