中国の歴史を題材にした作品の中でも人気が高い『三国志』ですが、その中で最強の武将といえば、呂布(りょふ)と関羽(かんう)が挙げられるでしょう。両雄の一方として知られる呂布は、并州五原郡九原県(現在の内モンゴル自治区包頭市)で生まれた中国後漢末期の武将で、抜群の統率力と戦闘力を誇りました。しかし、ただの猛将ではなく、裏切りを重ねてのし上がったという背景を持っているのです。今回は、三国志史上最強と呼び声の高い呂布がどのような働きをしたのか、その人物像や最期についてご紹介します。
呂布とはどんな人物なのか?
いわゆる三国志の有名な場面の大半は、三国時代直後に書かれた史書としての『三国志』ではなく、後の明代にこの『三国志』を面白くかつ、分かりやすく編集することで成立した時代小説『三国志演義』に由来します。これからご紹介する呂布の人物像も、一般的に三国志演義に基づくものです。まずはそこから、呂布の人物像について見ていきましょう。一体どの程度の強さを誇り、どのような性格の持ち主だったのでしょうか。
三国志で史上最強とされる武将
呂布は三国志の中でも最強といわれている武将で、数々の戦いで武勇を示しました。気性が荒い最高の名馬「赤兎馬(せきとば)」を乗りこなしたことでも有名で、『呂布伝』では「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と記載されるなど、人馬共に最強とたたえられています。圧倒的な存在感と戦場での強さが、彼の魅力といえるでしょう。
多くの裏切り……その人物像は?
優れた弓術や馬術を身に付けていた呂布は、部下の指揮にも秀でていました。兵の動かし方は巧みで、部下にも慕われていたことから、戦場での指揮官としての資質はかなり高かったといえるでしょう。しかし思慮が浅く、目的のためには手段を選ばなかったため、その人生で多くの裏切りを繰り返しました。一言で表せば、したたかな人物だったといえそうです。
三国志での呂布の足跡を辿る
一筋縄ではいかない性格の呂布ですが、三国志でどのような足跡を辿っていったのか詳しく見ていきましょう。
丁原を裏切り董卓に仕える
呂布は并州の刺史だった丁原(ていげん)から武芸の腕前や勇猛さを買われ、彼の会計係を務めていました。そんな折、首都洛陽で中央権力を得ようと画策していた董卓(とうたく)から、障害となる丁原の殺害を持ち掛けられます。呂布は丁原から寵愛されていたので、普通であればそのような話には乗らないはずです。ところが呂布はその話に乗り丁原を殺害、その後は董卓に仕えるようになるのです。董卓は呂布と養子の縁まで結び、彼を重用しました。また、優秀な猛将である呂布がそばにいることで悪政の限りを尽くしたのです。
董卓暗殺!その理由とは
董卓の政治はひどいもので、大臣を辞めさせるなど勝手な人事をしたり、富豪から金品を奪取したり、罪のない人々を殺したりしました。その上、臣下の身でありながら、まだ幼かった皇帝を辞めさせ殺害までしています。このような振る舞いに対し反董卓連合軍が立ち上がりますが、董卓は町を焼き払って洛陽から長安に遷都するという強引なやり口で反撃します。そんな彼を止めたのは、なんと義理の息子となった呂布でした。董卓暗殺を企てていた朝廷の有力者・王允(おういん)の誘いに乗り、自らの手で董卓を殺したのです。
養子縁組までした董卓をなぜ裏切ったのか疑問になりますが、立腹状態の董卓から刃物を投げ付けられたことがあったからという説や、呂布が董卓の侍女と関係を持ち、バレるのを恐れたからという説など、その理由はさまざまあると考えられています。
袁術や袁紹を頼ったが……
董卓を殺害後、呂布は王允と共に政権を握りましたが、董卓の軍事力の基盤だった郭汜(かくし)、李傕(りかく)らに長安を襲撃され、数百騎を率いて逃亡することになります。流浪の旅を始めた呂布でしたが、自分の領土がないため、どこかで兵士たちの腹を満たす必要がありました。そこで呂布は自分を売り込み、受け入れてくれるよう各地に頼みに行くことになるのです。
荊州(けいしゅう)の袁術(えんじゅつ)には受け入れてもらえませんでしたが、次に頼った袁紹(えんしょう)は黒山賊の張燕(ちょうえん)と対立していたため呂布を受け入れました。しかし張燕軍との戦いに勝利した呂布が兵力補充を要求した際、呂布の将兵が略奪などを行ったことで袁紹との関係が悪化してしまいます。恐れをなして刺客を送った袁紹は、呂布が奇策でこれを回避したことを知り、固く城門を閉ざしたのです。
曹操の領地を乗っ取ろうとした
その後、数々の群雄たちを頼った呂布でしたが、ついには他者の領地を乗っ取ることになります。
曹操が徐州の陶謙(とうけん)との戦いのために兗州(えんしゅう)を留守にすると、曹操に対し反逆の意思を持っていた張超(ちょうちょう)と陳宮(ちんきゅう)が、曹操の親友である張邈(ちょうばく)に「呂布と兗州を共有すること」を提案します。張邈は反乱の意を固め、これにより受け入れられた呂布はさまざまな城を奇襲などで落としていきました。
曹操が徐州から戻ると、呂布は濮陽(ぼくよう)に籠城して曹操からの攻撃を連破します。この戦いは1年以上続きましたが、最終的には呂布の敗北に終わりました。
放浪生活から劉備のもとへ
曹操との戦いから逃げ延びた呂布は、最後に徐州を支配していた劉備を頼りました。呂布は妻に挨拶をさせたり劉備と酒を酌み交わしたりしましたが、劉備は呂布の一貫性のなさを見抜いていたようです。
やがて劉備と袁術が徐州を巡り争い始めると、呂布はその隙に劉備の本拠である下邳(かひ)を奪取してしまいます。これにより劉備が降伏すると、呂布は劉備を豫州(よしゅう)の刺史にし、自らは徐州の刺史を名乗りました。その後、劉備は1万の兵を集めたものの呂布から攻撃され、曹操を頼ることとなります。
裏切り者の烙印を押された男の最期
裏切りに次ぐ裏切りで徐州を支配するまでにいたった呂布ですが、そんな彼にも最期が訪れます。呂布は曹操に捕まってもなお保身のため、自分を家臣にするよう進言するといった驚きの言動に打って出ました。ここでは、呂布の最期について見ていきます。
曹操の軍門に下った呂布の狙い
呂布は再び袁術と通じるようになりましたが、劉備が逃走して頼った曹操が、大軍を率いて徐州に攻め込んできます。下邳に到着した曹操との戦いに大敗するなど、戦況は曹操軍が優位でした。呂布らは下邳に籠城しましたが、周りを曹操軍に囲まれ水攻めが実行されると、呂布の騎将だった侯成らは呂布を裏切って投降します。今まで裏切りを繰り返してきた呂布でしたが、最後は自分が裏切られることになってしまいました。
曹操によって処刑される
捕縛され曹操の前に差し出された呂布は、縛り方がきつすぎるので緩めるよう願い出たといいます。曹操が「虎を縛るのにきつくしないわけにはいかない」と返答すると、呂布は「自分が降伏したら心配事はもうない。殿が歩兵を、私が騎兵を率いれば天下太平だろう」と進言します。しかし劉備が呂布の裏切りの数々を挙げたことで曹操も納得し、呂布は縛り首となりました。彼の首はさらされたのちに埋葬されたそうです。
三国志の中でも人気の武将
三国志の中でも人気を誇る猛将・呂布ですが、華々しい戦歴が注目されるとともに、裏切り者の烙印も押されています。その人生を振り返ると、確かに裏切りの連続でしたが、群雄割拠の時代背景を考えると、より強い者を目指し、裏切ってでものし上がるというのは、この時代を生き抜くための重要なスキルだったのかもしれません。呂布が今なお人気なのは、猛然と乱世を渡り抜く最強の武将として魅力があるからなのでしょう。
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