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【西洋砲術の先駆者:高島秋帆】日本に洋式砲術を導入した男の生涯と逸話

【西洋砲術の先駆者:高島秋帆】日本に洋式砲術を導入した男の生涯と逸話

室町時代にポルトガル人から種子島に伝わった砲術は、江戸時代になると日本独自の発達をしました。最盛期には400もの流派があったといわれる和流砲術ですが、やがて西洋式砲術が発展していきます。そのきっかけを作ったのが高島秋帆(たかしましゅうはん)という人物です。軍事面から日本の近代化に貢献した秋帆は、どのような人物だったのでしょうか? 今回は、秋帆が高島流砲術を完成させるまでの道のりや、兵制改革への取り組み、西洋式軍隊を目指しての活動、秋帆にまつわるエピソードなどについてご紹介します。

日本砲術から西洋砲術へ

秋帆が砲術と関わるようになったきっかけは家系にありました。西洋砲術に出会うまでの秋帆について振り返ります。

和流砲術・荻野流の師範に

秋帆は、寛政10年(1798)長崎町年寄・高島四郎兵衛の三男として誕生しました。高島家は代々町年寄を世襲する家系で、このころ四郎兵衛は長崎港の出島の台場(砲台)を任されていたといいます。また、四郎兵衛は幕府から派遣された荻野流砲術家・坂本孫之進に学んで砲術師範となっていました。そんな父から皆伝を受け荻野流師範となった秋帆は、やがて町年寄見習となって台場を受け持ち、のちに長崎会所調役頭取となりました。

高島流砲術を完成させる

長崎県のグラバー園にある、高島流和大砲です。

当時の日本において、長崎は唯一海外と通じる都市でした。そのような環境に身を置いていた秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差に衝撃を受けます。和流砲術は軽砲に限定されており、武装艦にはまったく歯が立たなかったからです。そこで秋帆は、実戦経験のあるオランダ人から直接話を聞きオランダ語や洋式砲術を学びます。そして、私費でさまざまなジャンルの文献を収集し、大砲、弾丸、銃といった武器も大量に輸入。こうして秋帆は、天保5年(1834)に高島流砲術を完成させました。翌年には、入門した佐賀藩武雄領主・鍋島茂義に免許皆伝を与え、自作した大砲を献上しています。

兵制改革への取り組み

独自の砲術を確立した秋帆は、変わりゆく世界情勢のなかで火砲の近代化を推し進めました。秋帆はどのように日本の兵制改革に取り組んだのでしょうか?

意見書『天保上書』を提出

天保11年(1840)清とイギリスのあいだで2年にわたるアヘン戦争が勃発します。清はこの戦いでイギリスの軍艦や砲術に圧倒され敗北。そんな清と日本を重ね合わせ危機感を覚えた秋帆は、今後予想される外国との戦いのために、外国砲術を把握し火砲を近代化するよう訴える『天保上書』を書き上げました。この上書は長崎奉行・田口加賀守を通じて幕府に提出され、老中・水野忠邦の目にとまります。これにより砲術の西洋化が始まったのです。

徳丸ヶ原にて日本初の公開演習

日本初の洋式砲術・銃陣演習を描いた『砲術稽古業見分之図』

天保12年(1841)武蔵国徳丸ヶ原にて、秋帆による日本初の洋式砲術と洋式銃陣の公開演習が行われました。この演習には総勢100人が参加し、検分者として忠邦らが見学したほか、多数の大名関係者・蘭学者・砲術師・江戸の住民らが訪れたといいます。その人数は1000人ともいわれていることから、どれほど注目されていたかがわかるでしょう。この見学者の中には、若き日の勝海舟の姿もありました。 公開演習は一つの不発もなく成功に終わり、幕府は秋帆所有の大砲を買い上げ、演習の功績として銀500枚を与えます。また、この演習の結果により秋帆は砲術専門家として幕府に重用され、「火技中興洋兵開基(西洋砲術を初めて我が国に導入した人物)」とたたえられました。こうして秋帆の高島流砲術は全国へと広まっていったのです。

本格的な西洋式軍隊を目指して

幕府に重用された秋帆は、のちに砲術訓練の指導にもあたります。軍隊の近代化に貢献した彼はどのような晩年を過ごしたのでしょうか?

えん罪で投獄され……

幕府の信頼を得た秋帆でしたが、公開演習の翌年、謀反の疑いがあるとして長崎奉行に逮捕・投獄されてしまいます。これは、秋帆に批判的だった反蘭学派の鳥居耀蔵が「密貿易をしている」という嘘を訴えたことが原因だといわれています。ただし一説には、忠邦の黒幕説もささやかれているようです。秋帆はえん罪により武蔵国岡部藩で幽閉されますが、洋式兵学の必要性を感じていた諸藩は秘密裏に彼を訪ねその知識を学びました。

赦免による出獄と『嘉永上書』

その後、忠邦の失脚により老中の実権を握った阿部正弘は、秋帆の砲術知識を見込んで身柄を釈放します。このとき幕府は、開国をせまる外国船の来航に対し防衛用の砲台建設を必要としていたのです。諸藩のほとんどが開国反対の攘夷論を唱えるなか、約10年ぶりに自由の身となった秋帆は開国・通商を勧める『嘉永上書』を提出します。この秋帆の意見が奏功したかどうかは不明なものの、日本は開国へと進んでいきました。

幕府の砲術訓練を指導した

長崎県には高島秋帆旧宅として石垣、土塀、井戸などが残されています。

開国を決めた幕府は、本格的な西洋式軍隊を作り始めます。秋帆は洋式調練・砲術などを教える武芸訓練機関である講武所の師範となり、幕府の砲術指導に尽力しました。元治元年(1864)には教練書『歩操新式』を編纂。この頃の秋帆は妻子を江戸に呼びよせて長屋住まいをしており、10万石の大名に匹敵するといわれた町年寄の身分には戻らず、質素な暮らしを続けていたといいます。晩年は孫や妻、息子にも先立たれ、慶応2年(1866)の正月に亡くなりました。

秋帆にまつわるエピソード

西洋砲術を日本に広めるという大きな功績を残した秋帆。そんな彼に関するエピソードをご紹介します。

「高島平」の由来になった

日本初の洋式砲術訓練として陣を構え、砲兵・騎兵・歩兵による銃陣を行った土地は、秋帆にちなんで「高島平」と名付けられました。これが東京都板橋区にある都営三田線「高島平駅」の由来です。かつて徳丸ヶ原と呼ばれていた砲術場は、現在では団地が並ぶベッドタウンとなっています。

募金により紀功碑が建つ

松月院にある「高島秋帆先生紀功碑」

東京都板橋区赤塚にある松月院には、秋帆の功績をしるした「高島秋帆先生紀功碑(別名・火技中興洋兵開祖碑)」が建てられています。大正10年(1921)10月、陸軍司令官ら16名を発起人とした趣意書がまとめられ、紀功碑建設のための募金活動が行われました。6メートルもあるこの紀功碑は、秋帆を象徴して大砲の形になっています。

渋沢栄一との関係とは?

令和3年(2021)放送予定のNHK大河ドラマ『青天を衝け』では、渋沢栄一に影響を与えた人物として秋帆が登場します。彼がえん罪で逮捕・幽閉された岡部藩は、渋沢が幕府に仕えるきっかけともなりました。また、渋沢は「高島秋帆先生紀功碑建設」の企画に賛同し寄付もしています。日本に大きな影響を与えた二人には、意外な繋がりがあったようです。

日本陸軍創設者の1人とされる

西洋砲術を導入し、日本の西洋式軍隊化に尽力した秋帆。彼は日本陸軍の創設者の1人としても名高く、その功績を考えれば、日本の近代化の一翼を担った人物ともいえるでしょう。大河ドラマ『青天を衝け』では、玉木宏さんが秋帆を演じます。渋沢栄一の生涯とともに、秋帆の人生がどのように描かれるのか注目ですね。

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