『三国志』の登場人物の1人である趙雲(ちょううん)は、劉備の主騎として活躍し、劉備の息子・劉禅を救ったことで知られています。また、劉備が趙雲の勇敢さを称えたという故事から「一身是胆(いっしんしたん=強い勇気があり何事も恐れないことのたとえ)」という四字熟語の由来にもなりました。
今回は趙雲について知りたい人に向けて、劉備のもとでの活躍、北伐と最期、『三国志演義』での描かれ方、人物像などについてご紹介します。
劉備のもとでの活躍
趙雲と劉備はどのようにして出会ったのでしょうか?出会いから主騎としての活躍までを振り返ります。
公孫瓚の部下から劉備の主騎に
趙雲は冀州常山郡真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人といわれており、もともとは群雄のひとり・公孫瓚(こうそんさん)の部下でした。字は子龍。劉備は流浪時代、公孫瓚に能力を認められて厚遇された時期があり、趙雲はこのころ劉備に出会ったようです。二人で戦いに出ることもあったといわれていることから、親交も深めていたのでしょう。その後の建安5年(200)、劉備は独立したものの曹操に敗れ、袁紹のもとへ身を寄せました。そこに趙雲が訪ね、劉備に召し抱えられ主騎になったといわれています。この前年、公孫瓚が滅んで趙雲は流浪の身になっていたのです。
長坂の戦いで劉備の妻子を救出!
このころ、漢の丞相・曹操は華北を平定し、荊州方面へと目を向けていました。最後の敵だった荊州牧・劉表への攻撃を決めた曹操は、荊州進出のため大軍を引き連れて南下。荊州の客将だった劉備はこれを支えきれず逃亡しました。曹操は少数精鋭で追撃し、南郡当陽県の長坂で劉備に追いつきます。このとき劉備は妻子を捨てて逃げ出し、殿軍を引き受けた張飛の活躍により無事に江夏へ敗走。趙雲は残された嫡子・劉禅を抱え、その生母である甘夫人を保護しました。劉備の娘2人は捕獲されたものの、趙雲の活躍により劉備夫人と劉禅は助かったのです。この長坂の戦いのあと、趙雲は牙門将軍に昇進しました。
益州平定後、翊軍将軍に就任
三顧の礼により仲間に引き入れた軍師・諸葛亮(孔明)の戦略により、劉備軍は赤壁の戦いで勝利を収めます。その後、劉備は荊州南部を占拠し、家臣たちに推されて荊州牧になりました。建安16年(211)蜀の主・劉璋から戦いに加勢してもらうために劉備軍を益州に入れてほしいとの要請があり、劉備は蜀に入ります。劉備が承諾した裏には、この機に蜀を乗っ取ろうという目論見がありました。劉璋の部下である張松・法正はすでに劉璋を見限っており、この機に益州を獲るよう劉備に打診。渋る劉備でしたが、軍師中郎将・龐統(ほうとう)の進言により蜀の乗っ取りを決断します。このとき趙雲は荊州に留まっていましたが、劉備が蜀の首都・成都に侵攻すると、諸葛亮・張飛らとともに入蜀して益州の各郡県を平定。江州から西進して江陽を攻略し、益州平定後は翊軍将軍に就任しました。
北伐への従軍と最期
勢力を拡大していった劉備軍でしたが、劉備は志半ばにして死に、諸葛亮による北伐が行われます。そのとき趙雲はどうしたのでしょうか?
劉備の死、劉禅の即位
劉備の蜀の乗っ取りが成功すると、諸葛亮が発案した天下三分の形勢がほぼ定まりました。しかし、蜀を奪って勢力を拡大させた劉備は孫権から警戒され、荊州の諸郡の返還を求められます。劉備はこれを拒否し、両者は対立。孫権は荊州を奪還すべく曹操と同盟を組んで荊州本拠を襲撃し、関羽を破って荊州を手に入れました。このころ劉備は漢中を手に入れ「漢中王」を自称していましたが、蜀の群臣に推され建安26年(221)蜀漢の皇帝に就任します。
同年、関羽の弔い合戦として夷陵の戦いで孫権を攻めるも、最終的に陸遜の火計策により大敗。章武3年(223)劉備の死に伴い17歳の劉禅が即位すると、趙雲は劉禅のもと、昇進を重ねて鎮東将軍となりました。
北伐で敗北を喫する
劉禅が皇帝に即位した後、蜀の政治を任されたのは諸葛亮でした。諸葛亮は関羽の死によってこじれた呉との関係を修復し、北に位置する魏への進攻(北伐)を計画。建興6年(228)ついに北伐が開始されます。魏の第2代皇帝・曹叡は曹真に軍の指揮を命じ、趙雲と対峙することになりました。兵力は趙雲の方が上だったものの、曹真軍は強く敗北を喫してしまいます。趙雲はみずから殿軍を務めて退却し大敗を逃れましたが、これにより降格または禄を減らされたようです。こうして晩年まで戦場で奮闘した趙雲は、建興7年(229)に死去。子・趙統が跡を継ぎました。
『三国志演義』での描かれ方
劉備、そして劉禅のもとで戦い抜いた趙雲ですが、『三国志演義』での彼はどのように描かれているのでしょうか?
五虎大将軍として関羽・張飛と同格に
関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲の5人は、蜀を代表する武将「五虎大将」とされています。これは『三国志演義』における創作ですが、『正史』で5人の伝記が1つにまとめられていることから「五虎大将」ができたと考えられます。『正史』では、関羽・黄忠・馬超・張飛はそれぞれ前後左右の将軍位ですが、趙雲は翊軍将軍のため、5人の中で最も位が低い武将です。しかし『三国志演義』ではほかの4人と同格に位置付けられています。
3メートルの槍を使いこなす
『三国志演義』での趙雲は、約3メートルもある「涯角槍」(がいかくそう)という槍が得意な人物として描かれています。変わった名前ですが、この由来は「生涯に敵う者なし」という意味で趙雲が名付けたのだとか。また、『三国志演義』では、趙雲がこの槍で張飛と互角に一騎討ちをしたというエピソードもあります。
趙雲はどんな人物だったか?
趙雲はどのような人物だったのでしょうか?人物像がわかるエピソードをいくつかご紹介します。
慎重で謙虚なプロフェッショナル
趙雲は重厚な性格で、勇猛ながら謙虚で冷静な人だったといわれています。益州平定後、劉備が財産や農地を分配しようとしたとき、趙雲は「まず民衆に与えるべきです」と反対し、劉備はこの意見に従いました。また、劉備が関羽の弔い合戦として呉を討とうとしたときは、「敵は魏であり呉ではありません」と冷静にいさめています。北伐での一戦で敗北しつつも被害を最小限にとどめた際は、諸葛亮から称賛され絹が与えられましたが、「敗軍の将になぜ褒美があるのでしょうか」と言って辞退したそうです。
仲間から絶大な信頼を得ていた
趙雲が劉備の仲間に加わった際、劉備は心底喜び、同じ床で眠るほどの親しみをみせたといわれています。また、長坂の戦いで趙雲がはぐれたときは、曹操方へ寝返ったという噂をまるで信じなかったそうです。劉備がいかに趙雲を信頼していたかがわかるでしょう。趙雲は諸葛亮からも絶大な信頼を得ており、劉備が孫権の妹との縁談のために呉へ行ったとき、諸葛亮は関羽や張飛ではなく趙雲を指名しています。
趙雲はイケメンだった?
創作作品ではイケメンとして描かれることが多い趙雲ですが、実際はどうだったのでしょうか?
『正史』には趙雲の外見についての描写はありませんが、『趙雲別伝』では、身長約184cmで姿や顔つきが際立って立派だったと表現されています。また『三国志演義』では、恵まれた体格で眉が濃く、目が大きく広々とした顔と記されており、基本的には偉丈夫として描かれているようです。
時代とともに人気が高まった武将
劉備や諸葛亮から信頼され、劉備の息子・劉禅の命を救った趙雲。現在では『三国志』における人気武将の1人となっていますが、もともと張飛・関羽・諸葛亮が圧倒的な人気を誇っていたため、彼の人気は時代とともに高まったようです。派手さはない趙雲ですが、忠実で堅実に仕事をこなすその姿が、彼の大きな魅力といえるかもしれません。