中国の歴史書『三国志』には、「魏(ぎ)」「呉(ご)」「蜀(しょく)」の三国が争っていた時代が描かれています。この時期の中国には同時に3人の皇帝が存在していました。それが魏の曹丕(そうひ)、呉の孫権、蜀の劉備です。黄巾軍(こうきんぐん)との戦いからのし上がり、諸葛亮(孔明)との逸話も有名な劉備についてはよく耳にしても、曹丕という名前はあまり聞きなれないという方が多いかもしれません。
今回は魏の皇帝・曹丕について、その生い立ちや経歴、人物像についてご紹介します。
曹操の息子・曹丕の生い立ちと経歴
魏国といえば曹操を思い浮かべる方も多いでしょう。曹操はこの時代に活躍したものの、皇帝の座には就きませんでした。彼の勢力を引き継いで初代皇帝になったのが、曹操の息子である曹丕です。
曹操の三男として生まれる
曹丕は、中平4年(187)に曹操と卞氏(べんし/武宣皇后)の長子として生まれました。異母兄が2人いたため三男にあたり、母は側室という庶子でした。この時点で後継者になる望みは薄かったといえるでしょう。
ところが、正室・丁氏が育てていた異母長兄・曹昂(そうこう)が戦死したことで、丁氏と曹操が離別します。さらには次兄・曹鑠(そうしゃく)も病死してしまいました。そのため卞氏が正室として迎えられ、それ以降は曹丕が嫡子として扱われるようになったのです。
魏の初代皇帝:文帝となった
曹丕は父のもとで五官中郎将として副丞相(ふくじょうしょう)になり、曹操の不在時に代わりを任されるようになりました。
建安21~22年(216~217)、弟・曹植(そうしょく)との後継者争いに勝利し、建安25年(220)に曹操が逝去すると、魏王に即位して丞相職を引き継ぎます。その後、霊帝の次子で後漢最後の皇帝でもある献帝(劉協)に地位を譲るよう迫り、ついに皇帝の座に就いたのです。
これにより後漢は滅亡し、それ以降「三国時代」に突入することになります。文帝となった曹丕は、諸制度を整え、父から受け継いだ国を安定させていきました。
曹丕の最期について
黄初3年(222)、魏は呉に攻勢することを決定します。曹仁・曹休・曹真・夏侯尚(かこうしょう)は3路から呉を攻めましたが、包囲が半年に及んだり疫病が発生したりしたため、結果は大敗でした。
黄初5年(224)の出兵では曹丕が十数万の大軍を率いて出撃したものの、偽の城壁の存在に驚き、まだ孫権を攻めるのは難しいと判断して戦わずに退却しています。その翌年も魏軍を率いて進撃しましたが、厳しい寒さで長江が凍っていたため舟を動かせず、撤退を余儀なくされました。
そして黄初7年(226)曹丕は風邪を悪化させて肺炎になり、この世を去ったのです。
悪評が多い?その人物像と逸話とは
魏の初代皇帝という輝かしい地位に就いた曹丕でしたが、その評判はあまり良くなかったようです。ここでは曹丕の逸話からその人物像に迫ります。
幼い頃から文武両道に優れていた
曹丕は8歳の時点で巧みな文章を書く能力を持っていました。また騎射や剣術の才能にも秀でており、わずか11歳で父・曹操の軍に従軍しています。その中でも得意だったのは弓だそうです。これらのことから、彼は文武両道の武将といわれています。
日本史ではおおよそ15歳前後に元服して大人になりますが、曹丕はそれ以前にすでに命を賭して戦っていたのですね。この経験は曹丕の性格形成にも関わっていたかもしれません。
曹植を陥れたことで知られる
2人の兄が死んで、嫡男の扱いを受けるようになった曹丕ですが、もともと曹操が目をかけていたのは異母弟の曹沖と曹植でした。彼らは幼い頃から頭がよく優しい性格だったようです。
ところが曹沖が13歳で亡くなると、曹丕と曹植の間で後継者争いが勃発します。ただし曹植自身は争うつもりはなく、取り巻きが彼を担ぎ上げたようです。
最終的に曹操が跡継ぎにしたのは曹丕でしたが、これは冷酷な一面を持つ曹丕なら厳しい決断もできるだろうと考えたからだといわれています。
曹丕は父の死後、復讐のように曹植の側近たちを処刑しました。そして曹植らを辺地に追いやり、力をそぐために転封を繰り返させたのです。このような処遇と司馬氏の重用が、のちに中国統一を果たす西晋の武帝・司馬炎の存在につながっていくのです。
甄夫人に死を!残虐な一面
曹丕には甄夫人(しんふじん)という側室がいました。高官の家柄で幼い頃から聡明だった彼女は、小説『三国志演義』で美女として描かれています。
彼女は袁紹(えんしょう)の次男・袁煕(えんき)の妻でしたが、建安9年(204)に曹操が鄴(ぎょう)を攻め落とした後、曹丕の側室になりました。寵愛を受けて曹叡(後の明帝)らを産んだ彼女でしたが、曹丕の愛情はやがて他の女性に移ってしまいます。これに対し恨み言をいうと、怒った曹丕は彼女を死に追いやりました。
『三国志』魏書周宣伝によると、のちに曹丕はこれを後悔したそうです。
「四友」を寵愛し要職を任せる
曹丕は、司馬懿(しばい)・陳羣(ちんぐん)・呉質(ごしつ)・朱鑠(しゅしゃく)の4人を寵愛(ちょうあい)していました。彼らは「四友」と呼ばれ、重要な職を歴任しています。
陳羣は「九品官人法」を制定し、これはその後360年以上にわたって使われました。司馬懿は曹操に仕えていましたが、太子中庶子になり曹丕の厚い信頼を得ています。
呉質は豊かな文才の持ち主で、曹丕から心労を打ち明けられるなど親しくしていたことがわかる人物です。また朱鑠も曹丕から友人としての待遇を受けています。
彼ら4人は曹丕のよき相談相手であり、友人でもあったのでしょう。
『典論』を記した文帝
曹丕は『典論』を著したことでも有名です。これは中国で初めて本格的に文学・文体などを論じた書物で、現在は自叙文と文選に引用された論文だけが残されています。
『典論』にはこんな逸話があります。
崑崙山(こんろんざん)には火ねずみの毛で作ったといわれる「火浣布(かかんぷ)」という耐火性の織物がありました。火の中に入れると布は燃えずに汚れだけが落ちるという珍しいものでしたが、長らく見かけなかったため人々はその存在を疑い始めました。曹丕は、火は容赦なく焼き尽くすからそんな布はありえないと『典論』の中で論じて否定します。明帝はこれを不朽の格言だとして石碑に刻みました。しかし、西域の使者が「火浣布」で作った袈裟を献上したため、石碑の該当箇所は削り取られ、天下の笑いのタネになったそうです。
後世の評価が低い曹丕
『三国志』の英雄の一人・曹操は帝位に就かず、その息子である曹丕が魏の初代皇帝になりました。多くの兄弟の中でようやくつかんだその座は、彼にとって誇らしいものだったに違いありません。
しかし数々の逸話からもわかるように、後世での評価は低いのが実情です。呉への進撃がうまくいけば結果は違ったかもしれませんが、どちらにせよ曹操の跡継ぎとして比較される運命からは逃れられないでしょう。偉大過ぎる父を持ったため、これも致し方ないのかもしれませんね。
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