【徳川慶喜の妻:美賀君(一条美賀子)】不遇な結婚生活を送った江戸最後の御台所

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【徳川慶喜の妻:美賀君(一条美賀子)】不遇な結婚生活を送った江戸最後の御台所

徳川慶喜は江戸幕府最後の将軍として有名ですが、その妻・美賀君(一条美賀子)についてはあまり知られていないかもしれません。渋沢栄一の生涯を描く、吉沢亮さん主演のNHK大河ドラマ『青天を衝け』では、川栄李奈さんが美賀君役を務めます。江戸最後の御台所となった美賀君は、どのような女性だったのでしょうか?
今回は、美賀君が慶喜に嫁ぐまでの経緯、結婚後のくらし、慶喜との再会と最期、2人の夫婦仲などについてご紹介します。

徳川慶喜に嫁ぐまで

美賀君はなぜ慶喜に嫁いだのでしょうか?うまれから結婚までの経緯について振り返ります。

公家の家に生まれる

美賀君は、天保6年(1835)公家・今出川公久(いまでがわきんひさ)の娘として生まれました。幼名は延君(のぶきみ)といい、後に美賀君と改めています。父は叙爵から侍従・右近衛権少将を経て公卿となり、昇進を重ね大歌所別当を務めましたが、美賀君が生まれた翌年にはすべて辞職し、同年に死去。公家の娘というお嬢様の立場だった美賀君ですが、早くに父を亡くし育ちました。

代役として急遽、結婚!

嘉永6年(1853)5月、美賀君は一橋慶喜と婚約します。慶喜は水戸藩9代藩主・徳川斉昭の子で、水戸徳川家から御三卿の一橋家に養子に入り、関白・一条忠香の娘である千代君(照姫)と婚約中でした。しかし婚儀直前、千代君が天然痘にかかって病死したため、美賀君が代役になったのです。忠香の養女となった美賀君は江戸に下向し、安政2年(1855)11月15日に結納、12月3日に結婚します。こうして美賀君は公家としての生活に別れを告げ、武家の妻になったのでした。

慶喜の将軍就任と結婚生活

徳川慶喜の肖像写真です。

結婚後の慶喜は出世を重ねていきます。美賀君の結婚生活はどのように変化したのでしょうか?

女児をもうけるが……

結婚から3年経った安政5年(1858)の7月、二人はようやく女子を授かりました。ところが、わずか数日で亡くなり、美賀君はふさぎ込んでいったといいます。彼女は病弱だったこともあり、以降、子供を授かることはありませんでした。その後、夫の慶喜は将軍後見職に就任し、将軍・徳川家茂とともに京に向かいます。そのため、二人は別居生活を余儀なくされました。家茂死後の慶応2年(1866)、慶喜はそれまで拒み続けていた将軍職に就きます。将軍となった慶喜は京に留まり続けたため、美賀君も江戸城の大奥には入らずに過ごしました。

明治維新後も続いた別居生活

将軍となった慶喜は、軍制の整備など慶応の改革を推し進めました。しかし、薩長の武力倒幕の機運が高まったことから大政奉還に踏み切ります。こうして徳川幕府は実質的な終焉を迎えますが、新政府の合議制において慶喜が筆頭となることに不満を覚えた倒幕派は、徳川家を排した新政府樹立を宣言。この王政復古の大号令により慶喜は辞職したものの、慶応4年(1868)には戊辰戦争が勃発しました。初戦で敵前逃亡した慶喜はやがて朝敵とみなされ、追討令が出されます。これに対し慶喜は、抵抗を止めて恭順の意思を示しました。その後は江戸に戻ったものの、上野・寛永寺や駿府・宝台院での謹慎生活に入ります。そのため、美賀君とは相変わらず対面できない日々が続きました。この別居生活は明治維新後も続き、慶喜は静岡で、美賀君は東京の一橋屋敷で過ごしていたようです。

10年ぶりの夫婦生活

長らく別居生活が続いた慶喜と美賀君でしたが、ついに再会するときがやってきます。それは離れ離れになってから約10年の月日が経った頃のことでした。

側室の子供たちを養育

明治2年(1869)9月、ようやく慶喜の謹慎が解除されます。そして2か月後、美賀君が静岡に行き、二人は10年ぶりに共に暮らすようになりました。政治的な野心がなかった慶喜は、趣味に没頭する生活を送り、人々から「ケイキ様」と呼ばれて親しまれたといいます。一方、中根幸(こう)と新村信(のぶ)という2人の側室をかかえ、10男11女の合計21人の子供をもうけました。美賀君は実子を育てられませんでしたが、これら側室の子供たちはすべて美賀君を実母として養育されたようです。

乳がんで亡くなる

美賀君が眠る、東京の谷中霊園

明治27年(1894)乳がんを発症した美賀君は、治療のため東京にある徳川家達(徳川宗家第16代当主)の屋敷へと移ります。同月、医師で幕臣でもあった高松凌雲の執刀による手術を受けたものの、経過は思わしくなく2か月後に死去。静岡で見送った慶喜に詠ったといわれている「かくはかり うたて別をするか路に つきぬ名残は ふちのしらゆき」の和歌は、彼女の辞世の句ともいわれています。墓所は東京の谷中霊園にあり、ここには夫・慶喜の墓も建てられています。

美賀君と慶喜の夫婦仲は?

ほとんど一緒に暮らすことがなかった慶喜と美賀君ですが、二人の夫婦仲はどうだったのでしょうか?

慶喜と義祖母・徳信院の仲に嫉妬!

徳川慶喜の義祖母・徳信院の肖像写真です。

慶喜の父・斉昭は、二人の結婚を喜び、美賀君にも思いやりをもって接していました。しかし、慶喜と美賀君は不仲で、それはほかの大名の耳にも入っていたようです。慶喜は義祖母・徳信院と仲が良く、美賀君は嫉妬していたといいます。そのため稽古の邪魔をしたり、わめいてあたりちらしたりと、慶喜の怒りに触れることもあったのだとか。島津家の書簡には、安政3年(1856)6月16日、美賀君が二人の親密な関係に疑惑をもち、自害までしようとしたことが記されています。幸い命は助かったものの、彼女は3か月ほどふせっていたようです。

待望の子供に恵まれたのはその2年後のこと。我が子の誕生には美賀君も喜んだことでしょう。しかし、慶喜の仕事の都合もあり、表向きのお披露目は当分できないことになりました。それどころか子供はすぐに亡くなってしまい、美賀君は大きく落胆します。このような一連の出来事から浮き沈みが多かったであろう美賀君は、家中での評判があまり良くなかったようです。しかし、慶喜の謹慎解除後の同居により、それなりに夫婦仲も修復したといわれています。

一人で外出していた美賀君

静岡に迎えられ慶喜との同居が始まったあと、美賀君は紺屋町邸の女主人となり、花見・紅葉狩り・湯治などをしながら過ごしました。長く続いた別居生活の果てに、ようやく夫との穏やかな暮らしを手にいれた美賀君。しかし、慶喜は側室を寵愛していたことから、美賀君は一人で出かけることが多かったといわれています。なお、2人の側室は仲が良く、子供たちも含めみんなで同じ屋根の下に暮らしていたそうです。夫婦仲は改善したものの、美賀君は孤独感を抱えていたかもしれません。

江戸城大奥に入らなかった御台所

公家の娘として生まれ、武家の妻として生涯をまっとうした美賀君。夫・慶喜は激動の時代に徳川幕府の将軍となり日本史上最後の征夷大将軍に就任しましたが、最後まで江戸城には入りませんでした。そのため彼女も江戸城大奥に入らずに一生を終えています。そのような事情もあってか、映画やドラマでは描かれることが少なく、将軍正室としては知名度が低いようです。大河ドラマ『青天を衝け』では、川栄李奈さんがどのような美賀君を演じるのか楽しみですね。

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