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【三国志:孫権】呉の初代皇帝となった男は三国時代をどう生きたか?

【三国志:孫権】呉の初代皇帝となった男は三国時代をどう生きたか?

三国時代、呉の初代皇帝となった孫権。彼は父・孫堅と兄・孫策が築いた勢力を引き継ぎ、さらなる領土拡大を果たして呉を治めました。優秀な配下をもつ孫権は人を見る目があったともいわれていますが、晩年は求心力を失い国力衰退を招いたようです。魏の曹操、蜀の劉備とともに覇権を競った孫権の生涯はどのようなものだったのでしょうか?
今回は、孫権のうまれから政権を担うまで、荊州・交州を賭けた奮闘、三国鼎立と晩年、孫権の人物像などについてご紹介します。

 

うまれから政権を担うまで

孫権はなぜ政権を担うことになったのでしょうか?うまれから家督を継承するまでについて振り返ります。

孫堅の次男として誕生

清王朝時代に描かれた、孫堅の肖像です。

孫権は、光和5年(182)呉郡において孫堅の次男として誕生しました。しかし光和7年(184)には、父・孫堅は家族を残し、太平道の張角がおこした黄巾の乱の鎮圧のために戦っていたといいます。中平6年(189)、残された母や孫権らは、兄・孫策に連れられ廬江郡舒県にある周瑜(しゅうゆ)の屋敷に移住。孫堅の死後、孫策は袁術の旗下に入って力量を発揮していきます。

兄・孫策の遺命で家督相続

興平2年(195)、孫策は袁術からの自立をもくろみ江東で挙兵しました。これに付き従った孫権は、父の仇・黄祖との交戦で大勝を収め、江東平定に貢献します。そして建安5年(200)、孫策が暗殺によってこの世を去ると、遺命により家督を継承。若くして江東一帯を制することになった孫権は、父や兄の代から仕える周瑜・程普(ていふ)・呂範(りょはん)や、周瑜から推薦された魯粛(ろしゅく)といった優秀な人材を登用し、国内の安定に努めました。こうして力をつけた孫権はついに父の仇・黄祖を破り、江夏郡南部の制圧に成功します。

荊州・交州の獲得を目指して

勢力拡大を目指す孫権は、魏の曹操や蜀の劉備と対立していきました。赤壁の戦いから関羽討伐にいたるまで、孫権はどのような動きをしたのでしょうか?

赤壁の戦いで曹操軍に勝利!

月岡芳年『月百姿 南屏山昇月 曹操』で描かれた、赤壁を前にする曹操です。

江夏郡南部を落とした年の年末、曹操が大軍を率いて南下し、孫権は抗戦するか降伏するかの選択を迫られました。軍内では意見が割れましたが、孫権は周瑜ら交戦派の意見を受け入れ開戦を決断します。これは孫権の領地に逃亡してきた劉備と手を組んで抗戦するというものでした。

孫権軍は劉備軍と合流して曹操と戦い、赤壁の戦いで曹操の水軍を打ち破ります。周瑜の予想通り、曹操軍は江南の気候や地勢に慣れておらず、疫病に苦しめられていました。また武将・黄蓋の進言による火攻めも奏功し、陣営が燃え上がり不利に陥った曹操軍は撤退。こうして、孫権・劉備連合軍は荊州の大部分を奪うことに成功します。

周瑜の死と劉備との対立

赤壁の戦いのあと、孫権は荊州南部5郡を領有しました。劉備は人々を養うために荊州数郡を借りたいと孫権に頼みますが、周瑜は劉備を警戒して反対したそうです。しかし、孫権は周瑜の意見をきかず、劉備に荊州を分け与えました。その後、劉備に「共同で益州を奪取しよう」ともちかけますが、単独での益州奪取を考えていた劉備に拒否されてしまいます。やがて周瑜は益州進攻の遠征途上で急逝し、あとを継いだ魯粛が劉備との協力を提案したことから、孫権は荊州3郡を劉備に貸すこととなりました。

その後、孫権は曹操との戦いで勢いを増し、劉備も益州の劉璋を攻めて益州を領有しました。孫権は荊州3郡の返還を求めましたが、劉備が暗にこれを拒否したことから対立し全面戦争寸前に陥ります。しかし、曹操が劉備の領地に侵攻したため、両者は和解して停戦しました。

荊州を奪還し、関羽を討つ

孫権と曹操は重要拠点となる濡須口(じゅしゅこう)をめぐって戦い続けており、孫権は4回も曹操軍の侵攻を食い止めていました。しかし、孫権はそれまでとは政策方針を変え、漢王朝に偽りの臣従を申し出て曹操と休戦します。

そんな中、建安24年(219)、劉備のもとで荊州を任されていた関羽が北進を始めました。孫権は呂蒙(りょもう)・陸遜(りくそん)らに攻撃を命じ、陸遜らは荊州の劉備領を次々に攻略します。窮地に立った関羽は降伏勧告に応じるふりをして逃走するも捕まり、孫権は関羽の能力を惜しみながらも配下の進言を受けて斬首しました。

三国鼎立と孫権の晩年

戦いを重ね勢力を拡大した孫権は、やがて呉の皇帝となります。しかし、彼の築いた栄光もやがて陰りを見せ始めました。

夷陵の戦いで劉備を破る

『三国志演義』で描かれた劉備の肖像画です。

荊州奪還により劉備と敵対した孫権は、この世を去った曹操の跡を継ぎ、献帝から地位を譲られ魏王となっていた曹丕に接近しました。曹丕の皇帝位を承認した孫権は呉王に封ぜられ、魏との安定関係を築きます。こうして北方の安全を確保した孫権は、黄武元年(222)、荊州奪還のために侵攻してきた劉備軍を夷陵の戦いで撃破し、荊州領有を確実なものにしました。

三国の領域が確定すると魏と同盟する必要性がなくなり、形式上臣従していた魏から離反。孫権は曹丕の怒りに触れ侵攻を受けましたが、その都度撤退させました。また、蜀とは劉備の死後に和睦し同盟を組んでいます。

呉の初代皇帝に即位

それ以後、呉と蜀は手を組んで魏軍に対抗しました。蜀の諸葛亮が進める北伐などの動きに応じ、たびたび魏へと侵攻。孫権は巧みな外交術で勢力を拡大・維持し、黄龍元年(229)、呉の初代皇帝に即位します。蜀は呉との同盟関係を維持するために孫権の帝位を認め、両国は魏を討伐したあとの領地について話し合いました。その後、孫権は呉の都を建業(けんぎょう)に遷都しています。

後継者問題で国は衰退へ……

呉の皇帝になった孫権ですが、晩年は後継者問題に悩まされました。跡継ぎに指名した三男・孫和(そんか)と四男・孫覇(そんは)を同等の処遇にしたことから、孫和派と孫覇派による後継者争いが勃発。陸遜は嫡子と庶子を区別するよう孫権を説得しようとしましたが、孫権は何度も叱責の書状を送り、陸遜を憤死させたといわれています。

孫権は後継者争いをしていた三男・孫和と四男・孫覇ら兄たちを差し置いて寵愛する末子・孫亮を太子に任命し、国の主権が奪われることを恐れて官僚を弾劾するなど孫家の君主権強化に努めました。しかし、これらの行為が国力の衰退へとつながってしまいました。

孫権の人物像とは?

孫権はどのような人物だったのでしょうか?彼の人物像がわかるエピソードをご紹介します。

容姿は兄・孫策と正反対!?

孫権の兄・孫策の肖像画です。

孫権は高身長ながら胴長短足で、角張ったあご、大きな口、紫髯の持ち主だったといわれています。兄・孫策は美しい容姿とされていますが、孫権はいわゆるイケメンではなかったようです。しかし『三国志演義』では碧眼を持つ「碧眼児」と呼ばれ、父・孫堅も「只者では無い、貴人の相をしている」と将来を期待したとされています。

質素かつ勇猛果敢な性格

孫権は質素倹約や書を好む一方、日が暮れるまで狩りに没頭したそうです。戦場では最後まで残って退却の指揮を執るなど勇猛果敢でしたが、それが過ぎて命を落としかけたこともあったのだとか。武芸においては、馬をよく操り騎射が得意だったといわれています。何度も戦った曹丕は、孫権について物腰が柔軟だと評価しています。

配下に恵まれ三国時代を生きた

若くして孫氏の当主となった孫権は、父や兄から継承した武将をまとめあげて勢力を拡大し、呉の初代皇帝となりました。人を見抜く術に優れ、多くの優秀な配下を抱えた孫権ですが、晩年は後継者問題によって臣下を混乱させたようです。曹操から「息子なら孫権のような人物がよい」とまでいわれた孫権。その人生は完璧ではありませんでしたが、彼の家臣らが歴史に名を残した背景には、孫権の手腕があったといえるでしょう。

 

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