モンゴル帝国を築いたチンギス・ハンの孫であり、元の初代皇帝となったフビライ・ハン。中国を支配し、朝鮮半島や東南アジアへも勢力を拡大したフビライは、日本史においても2度の元寇で知られています。フビライ・ハンとはいったいどのような人物だったのでしょうか?当時のモンゴル帝国の状況とともにご紹介していきます。
ユーラシア大陸史上最大の国土を保有した「モンゴル帝国」
1206年、モンゴル高原東部の遊牧部族に生まれたチンギス・ハン(幼名テムジン)により、モンゴル帝国が建国されました。「ハン」とは「君主」を意味する言葉で、以降はチンギス・ハンの血統が歴代のハンを受け継いでいきます。
チンギス・ハンは中央アジアに攻めこみ、西遼、ホラズム・シャー国などを征服。彼の死後もその子や孫が領土を拡大し続け、最盛期には実に地球上の陸地の約25%を統治する大帝国となりました。
当時の支配形態は、モンゴル帝国の皇帝の元に、チンギスの一族が支配する国々=「ウルス(国家)」が連合するというもので、バトゥの建国した「キプチャク・ハン国」、フラグの建国した「イル・ハン国」、チャガタイを祖とする「チャガタイ・ハン国」がありました。そんな中でモンゴル帝国の第5代皇帝となり、「元」を建国したのがフビライです。
モンゴル帝国を最盛期に導いたフビライ・ハン
フビライ・ハンは、チンギス・ハンの四男トゥルイの子として生まれました。つまり、チンギス・ハンの孫にあたります。兄の第4代皇帝モンケに中国方面の領土征服を任されたフビライは、チベットや雲南に遠征するなど南宋征服に備えていましたが、1260年にモンケの急死を知ると、クリルタイ(モンゴルの部族長会議)を強行し、第5代皇帝として即位します。
その後、即位に不満をもつ勢力との争いに勝利したフビライは、1267年に都を大都(現在の北京)に遷し、1271年には国号を中国風の「元」と定めます。中国的な官制を採用し、遊牧国家から中国国家としての性格を強めていった元は、1276年に臨安を占領して、事実上、南宋を滅亡させて中国の統一支配を達成しました。
こうして、ユーラシア大陸史上最大の大帝国を築いたフビライですが、彼は領土を侵略するだけでなく、異民族を積極的に登用するなど、国際感覚に長けた人物でもありました。宮廷では、アフマドやサイイドといったムスリム(イスラム教徒)を財務官僚に登用し、専売や商業税の充実、運河の整備など、帝国に経済的な発展をもたらします。他にも、チベットからパスパを招き公用文字としてパスパ文字を作らせたり、ヨーロッパから訪れた商人マルコ・ポーロを厚遇するなど、その治世は国際色豊かなものでした。
2度にわたって日本を攻めた「元寇」
フビライ・ハンを語るうえで忘れてはならないのが「元寇(蒙古襲来)」と呼ばれる日本侵攻です。マルコ・ポーロの『東方見聞録』で日本の豊かさに目をつけたフビライは、6回にわたって服属を求める使者を送りますが、日本が返書をしなかっため、武力侵攻を決断します。当時の日本は元が侵略に手こずっていた南宋に金・銀・材木などを輸出していたため、この武力侵攻は南宋攻略のためでもあったと言われています。
フビライは1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の2度に渡り、北九州に攻めこみました。一般的には、2度とも暴風雨(いわゆる「神風」!)によって元の大軍が大損害を受けたため、日本はかろうじて国を守ることができたと言われています。しかし、近年では撤退の原因は暴風雨ではなかったという説が有力で、鎌倉幕府の執権・北条時宗を中心とした御家人たちの奮戦によって元軍は撤退せざるをえなくなったとされています。
元軍を退けることに成功した幕府でしたが、この戦いによる多大な負担がきっかけとなり、鎌倉幕府は滅亡の道へと進んでいきます。そう考えると、フビライは日本の歴史にも大きな影響を与えた人物と言えるのですね。
その後、フビライは3度目の日本攻撃を計画しますが、1287年にベトナム攻略に失敗したため、日本に攻めこむゆとりがなくなり、3度目の日本攻撃は行われませんでした。そして1294年、孫テムルに政権を譲ったフビライは、79歳でその激動の生涯を終えました。
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