1857年に起きた「インド大反乱(セポイの乱、シパーヒーの乱)」。その指導者のひとりであるラクシュミー・バーイーは、イギリス軍相手に勇敢に戦ったことで「インドのジャンヌ・ダルク」とも呼ばれています。彼女の活躍は現代にも語り継がれており、日本でも2020年に映画『マニカルニカ ジャーンシーの女王』が公開され、2022年3月にはドラマ『マニカルニカ~剣をとった王妃~』がチャンネル銀河で日本初放送されるなど、注目を集めています。
今回は、そんなラクシュミー・バーイーの生い立ちやインド大反乱での戦いぶり、彼女の人物像などについてご紹介します。
生い立ちから嫁ぎ先のイギリス併合まで
生い立ちから、嫁ぎ先がイギリスに併合されるまでをご紹介します。
謎の多い生い立ち
ラクシュミーの本名はマニカルニカといい、生年は1835年説の他、1828年ごろとする説もあり、定かではありません。出身も没落したマラーター貴族の出身とも、別の国に庇護されていたともいわれています。
一説には、父親はマラーター王国の宰相バージー・ラーオ2世の助言者として働くバラモンだったといわれており、こうした縁からバージー・ラーオ2世は彼女を実の子供のように育て、当時の女性にはほとんど縁がなかった教育や、武術、剣術、乗馬の訓練を受けさせたようです。
ジャーンシー藩王国へ嫁ぐ
1842年、ラクシュミーはジャーンシー藩王国(現在のインド中北部にあった国)の王ガンガーダル・ラーオに嫁ぎます。マラーター王国を中心としたマラーター同盟の小王国であるジャーンシー藩王国は、古来から交通の要所として栄え、イギリスとの間に軍事保護条約を結ぶことで自治・主権を認められていました。
藩王国とイギリスの間には「失権の原理」という併合政策があり、王に後継者がいないまま亡くなった場合、王国は完全にイギリス東インド会社に併合されてしまうため、子供をもうけることが急務でした。ラクシュミーは1851年、ガンガーダル王との間に子供をもうけたものの、子はすぐに病没してしまいます。さらに、1853年には王も病に倒れ、実子が望めなくなってしまいました。
ラクシュミーはなんとか養子を迎えようと奔走した結果、親類の息子であるダーモーダル・ラーオを5歳で養子とします。しかし、前述の「失権の原理」により養子は後継者として認められず、1853年12月に王が病没すると、翌1854年2月27日にジャーンシー藩王国はイギリスに併合されてしまいました。
ラクシュミーは城の撤収を余儀なくされましたが、「我がジャーンシーを決して放棄しない」とイギリスを拒絶する言葉を残して抵抗する意思を示しました。
インド大反乱への参加
城を追われたラクシュミーは、この後に勃発するインド大反乱の指導者となっていきます。
インド大反乱の勃発
併合以降、ラクシュミーは3年ほどイギリスから年金の支給を受けながら隠棲生活を送ります。そんななか1857年5月にインド大反乱が勃発すると、ジャーンシーでもシパーヒー(イギリス東インド会社の現地民傭兵部隊)と民衆が蜂起しました。
なお、かつては蜂起の中心となった傭兵部隊の名称をとって「シパーヒーの乱」や「セポイの乱」と呼ばれることが多かったのですが、近年では参加者の身分や出身が多岐にわたることから「インド大反乱」と呼ばれるようになりました。また、独立したインド側からは「第一次インド独立戦争」と呼ばれています。
ラクシュミーは初め、反乱軍とイギリスの仲介をしていたのですが、反乱軍がジャーンシー城に駐留していたイギリス軍を降伏させて虐殺したことで、イギリス側から虐殺に加担した疑いをかけられてしまいます。さらには、反乱軍が進軍するにつれてジャーンシーが空白地帯になったことから、ラクシュミーは民衆に戴かれ、ジャーンシーの執政を行うことになりました。
ラクシュミーは私財を投じて傭兵を集め、民衆から募った義勇軍を率いてイギリス側に与する近隣の藩王らを撃退します。8月にはジャーンシー城を奪還し、一躍、独立戦争の騎手となりました。このとき、ラクシュミーの率いる女性・子供まで加えた軍と戦ったイギリス軍の指揮官ヒュー・ローズは、あまりの苦戦ぶりに「彼らは王妃のために、そして自分たちの国の独立のために戦っているのだ」と書き残しています。
砦の陥落
ラクシュミーも自らライフル銃を持って戦うものの、半月あまり篭城戦を続けたのち、1858年に砦は陥落。民衆に脱出を懇願されたラクシュミーはその願いを受け入れ、わずかな兵とともに砦を脱出しました。このとき、真偽のほどは定かでないものの、逃げる途中でイギリス軍に捕まった際、護送するイギリス士官を自ら斬り捨てて脱出したとされています。
徹底抗戦の果てに
城を脱出したラクシュミーは再起を図り、徹底抗戦の姿勢を貫きます。
女性であるがゆえに
砦を脱出後、北東に150kmほど離れたカールピーという町で他の反乱軍と合流しました。しかし、当時は男尊女卑の風潮が強く、ラクシュミーは女性であったがゆえに孤立してしまいます。さらに、徹底抗戦を訴えるラクシュミーと、イギリスとの講和に向けて戦いを諦めようとしていた他の反乱軍指揮者では意見が合わず、対立を深めてしまいました。
グワーリヤル城を奪取
カールピーがイギリス軍の攻撃を受けて陥落した後、ラクシュミーはさらに100km北に位置するグワーリヤル城へ向かい、計略によって無血で城を奪い拠点としました。イギリス軍はこれに衝撃を受け、ただちにグワーリヤル城へ大軍を差し向けます。
イギリス軍の総攻撃が始まり、ラクシュミーは前線で迎撃の指揮を取ります。しかし、戦いが始まってわずか2日後、彼女は狙撃され命を落としました。やがてグワーリヤル城は陥落。ラクシュミーと再三戦った指揮官ヒュー・ローズは、彼女に最大限の敬意を示し、貴人に対する礼をもって遺体を荼毘に付すとともに、葬儀を執り行ったといわれています。
こうして反乱は鎮圧され、インドではイギリスの支配が続くことになりました。しかし、第二次世界大戦終結後の1947年に、ようやくインドは独立を達成。ラクシュミーは大反乱の英雄として再評価されることになり、各地に銅像が建てられました。
ラクシュミー・バーイーの人物像
ラクシュミーは、際立った美貌、民衆を惹きつけるカリスマ性、優秀な戦術など、英雄にふさわしい能力を兼ね備えていました。しかも、ジャーンシー藩王国を維持するためにインド総督に送った書類では、インドのみならず欧州の法律や外交、歴史にも詳しかったことがわかっています。
1947年8月にインドが独立した際、インドの初代首相であるジャワハルラール・ネルーは「名声は群を抜き、今なお人々の敬愛をあつめている人物」と彼女を称えました。
ちなみに、インド各地にある銅像ではサリーを着ていることが多いのですが、実際は絹のブラウスに西洋風の乗馬ズボンと、戦場で動きやすい格好をしていたようです。
名が体を表した、インドの女神ラクシュミー
ラクシュミーは類稀なるカリスマ性と軍事・政治戦略に長けた女性であり、加えて際立った美貌にも恵まれたとされています。その活躍ぶりからインドのジャンヌ・ダルクと呼ばれることも多いのですが、そもそも名前の「ラクシュミー」はインド神話で幸福と美を司る女神。まさに名は体を表す、インド民衆にとっての女神だったと言えるのではないでしょうか。
「マニカルニカ~剣をとった王妃~」
放送日時:2022年3月25日(金)スタート (月-金)深夜0:00~ 2話連続 ※スカパー!第1-2話無料放送
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/manikarnika/
出演:ヌシュカ・セン(マヌ/マニカルニカ)、ラジェシュ・シュリンガルプレ(モロパント・タンベ)、ヴィカス・マナクタラ(ガンガーダル・ラーオ・ネワルカル)、ジェイソン・シャー(ロス大尉) ほか
制作:2019年/インド/全110話/字幕/[原題]Jhansi Ki Rani
©Contiloe Entertainment Aired on Colors TV India