藤原頼経は、鎌倉幕府4代将軍で初めて源頼朝直系以外から鎌倉幕府の将軍となった人物です。今回は、頼経の生い立ちや4代将軍になった経緯、将軍になってからの権力争い、晩年や伝説についてご紹介します。
生い立ちから下向まで
まずは、頼経の生い立ちから鎌倉下向までをご紹介します。
源氏の血を引く、摂関家の三男
源頼朝の肖像です。
頼経は、摂政関白を歴任した九条道家の三男として生まれ、生まれたのが寅年・寅月・寅刻だったことから、幼名は「三寅」と名付けられました。父・道家と母・西園寺掄子はいずれも源頼朝の同母妹(坊門姫)の曾孫にあたり、同じ源氏の血筋を引いていることから、頼朝・源頼家・源実朝の3代の将軍とも遠縁ながら血脈はつながっています。
2歳で鎌倉下向
建保7年(1219)、鎌倉幕府3代将軍である実朝が暗殺によって死去。鎌倉幕府の最大の権力者は執権・北条氏となり、次の将軍には朝廷から親王(天皇の子ども)を迎えてさらに幕府の権威を高めようとしました。しかし、後鳥羽上皇は実朝暗殺の事実に鑑みて、北条氏の上奏を拒否します。
北条氏は、代替案として摂関家の中から、まだ2歳であった頼経を迎えたい旨を再び依頼しました。これも断ると全面戦争になりかねなかったことから、後鳥羽上皇も仕方なく承諾します。頼経は2歳で鎌倉に迎え入れられ、数年間は北条政子が後見人となり、実際の政務を執り行いました。
鎌倉幕府の4代征夷大将軍に
鎌倉幕府の4代将軍となった経緯をご紹介します。
承久の乱で後鳥羽上皇が敗れる
後鳥羽上皇の肖像です。
北条氏が朝廷を利用して幕府の権威を高めようとしたことで、後鳥羽上皇は激怒し、朝廷に味方する武士や僧兵、御家人を集め、討幕の準備を進めました。承久3年(1221)にはついに2代執権・北条義時追討の命を下します。その後、北条時政の後妻の兄弟である京都守護職・伊賀光季が上皇の誘いを拒んで殺害されるなどし、結局は全面戦争となりました(承久の乱)。
当時、朝廷の力は強大だったため、鎌倉幕府側の御家人でも朝廷と戦うことには躊躇(ちゅうちょ)する人が多くいました。そこで政子は19万人集まったともいわれる幕府軍に向けて演説を行い、士気を上げた幕府軍は朝廷側を圧倒。戦いに敗れた後鳥羽上皇は隠岐島(おきのしま、現在の島根県隠岐郡)に島流しとなったほか、多くの皇族や朝廷側の御家人に処罰が下されました。義時は承久の乱後に朝廷を監視するために六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置し、幕府の権力はさらに強まります。
元服して藤原頼経となる
嘉禄元年(1225)、頼経は9歳で元服します。元服の直前に義時・政子姉弟は相次いで亡くなっており、幕府の実権は義時の長男である泰時(やすとき)、義時の異母弟である時房(ときふさ)に引き継がれました。
寛喜2年(1230)、頼経は16歳年上の竹御所(2代将軍・頼家の娘)を正妻に迎えます。竹御所は北条氏の権力渦巻く幕府内で唯一、頼朝の血筋を引く生き残りであり、御家人の尊敬を集められたためです。頼経と竹御所の夫婦仲は良かったとされますが、第一子の出産が難産だった末、母子ともに亡くなってしまいます。これにより、頼朝の直系はすべて絶えてしまうこととなりました。
将軍になってからも……
頼経は、将軍になってからもさまざまな権力争いに巻き込まれました。
上洛し、本当の家族と再会
北条泰時の肖像です。
暦仁元年(1238)、頼経は泰時・時房らとともに上洛します。1月28日に鎌倉を出て、京都には2月17日から10月13日まで滞在したとされています。6月5日には時房らとともに春日大社に参詣。この間、祖父母・両親・兄弟たちと再会し、権中納言・検非違使別当を経て権大納言にまで昇進しました。
反得宗・反執権政治勢力との接近
頼経が昇進などに伴って権力をつけていくにつれ、反得宗・反執権政治勢力が頼経に接近します。以前から、北条氏一族も枝分かれしてきたことから、義時は自分のいる北条本家を「得宗」と称し、執権は原則として得宗家からのみ輩出すると決めていました。これに反発するのが反得宗勢力です。
仁治3年(1242)には泰時が59歳(58歳という説もあり)で死去。泰時の子である北条時氏が既に他界していたことから、孫の北条経時(つねとき)が執権になりました。さらに頼経の祖父・西園寺公経が死去すると、父・道家が幕政に介入してこようとします。祖父・公経は北条氏との関係にも気を配っていましたが、父・道家は北条氏に反感を持っていたことから、頼経と経時の関係も悪化してしまいます。
「大殿」の反乱?
寛元2年(1244)、頼経は将軍職を嫡男の藤原頼嗣に譲らされます。しかし、頼経はその後も「大殿」としてとどまり、鎌倉幕府内に勢力を持ち続けました。寛元3年(1245)には再度の上洛を試みるものの、直前に経時と北条時頼の兄弟の屋敷から出た失火で政所が焼失したことを理由に延期されました。一説には、この失火は北条氏が頼経の上洛を防ぐため、わざと自分の屋敷に放火したとも考えられています。
その後、頼経は出家。寛元4年(1246)に反得宗勢力の名越光時(泰時の甥)の反乱が未然に防がれた際、頼経は首謀者として京都に送還されます。父・道家も関東申次(かんとうもうしつぎ)を罷免され、籠居を命じられました。この一連の騒動は「宮騒動」と呼ばれています。このように、権力争いに翻弄される人生を送りました。
藤原頼経の晩年やエピソードは?
頼経の晩年やエピソードについてご紹介します。
鎌倉復帰を画策し続けた晩年
宝治元年(1247)、三浦泰村・光村兄弟が頼経の鎌倉帰還を図るも失敗。建長3年(1252)には、頼経の子である頼嗣も将軍職を解任され、送還されました。まもなく父・道家が失意のうちに死去。その後も反得宗勢力と組んで鎌倉復帰を画策し続けましたが、康元元年(1256)8月11日に赤痢で死去します。翌月には頼嗣も疫病で死去したため、相次ぐ死を不審死とする見方もあるようです。
鹿島神宮の白馬祭(おうめさい)
鹿島神宮(現在の茨城県鹿嶋市)で行われる白馬祭は、頼経が関東に下向したとき神託で悪来王を退治したことから、鹿島神宮の神前で、禁中で行われていた白馬節絵会を執り行ったのが起源とされています。
鎌倉幕府の権力争いに翻弄された生涯
頼経は、傀儡将軍として2歳で迎え入れられてから、38歳で死去するまで、鎌倉幕府を中心とした権力争いに翻弄された生涯を送りました。北条氏の勢力争いに巻き込まれた頼経・頼嗣2代は摂家将軍とも呼ばれています。朝廷と幕府の間で板挟みとなりながらも「大殿」となったのは、陰謀渦巻く鎌倉幕府の中でなんとか自分の力を保とうとしたかったからなのしれません。
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