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【琉球王国】日本の南西諸島で栄えた王政の国が沖縄県になるまで

【琉球王国】日本の南西諸島で栄えた王政の国が沖縄県になるまで

日本の都道府県の中で最南端にある沖縄県。沖縄本島にはかつて琉球王国と呼ばれた王政の国が栄えており、王国内の争いや外敵からの侵攻という出来事がありながらも、独自の文化を守ってきました。そこで今回は、琉球王国の成り立ちから、沖縄県になったいきさつについてご紹介します。

琉球王国の成り立ち

まずは、琉球王国の成り立ちについてご紹介します。

台湾も「琉球」と呼ばれていた!?

「琉球」という表記は600年代初頭、日本の本州では遣隋使として小野妹子らが中国に渡っていた頃の書物に初めて見られます。「隋書」によれば、「琉球」とは中国・福建省の東の海上に位置する一連の島々であるとしています。しかし、時代が下って元(1271〜1368年)の代になると、現・台湾と沖縄県の周辺を混同して指す記述が出てきます。

その後も奄美群島・沖縄諸島・先島諸島と台湾では小さな勢力が割拠している状態でしたが、14世紀になって沖縄本島中部を本拠地とする「中山王」が初めて明の皇帝に貢物を行い、中国と君臣関係を結んだことで国家として認識されるようになりました。

近代に入って、書物の中で「琉球」という言葉が指す地理的領域の考察が進みますが、「台湾を指す」とする説、「元以前は台湾のことを、明以降は沖縄県周辺のことを指す」とする説など諸説あります。このように、先史時代(旧石器時代~弥生時代=数千年から数万年前)における琉球にはさまざまな説があり、現在の沖縄本島を中心とする琉球王国が成立したのは1429年のことです。

三山時代〜統一まで

先史時代の終わり、各島々には「按司(あじ)」と呼ばれる豪族が現れ、やがて沖縄本島では北山・中山・南山の3つの勢力が拮抗する「三山時代」へ突入します。各地の按司は「グスク」と呼ばれる城を築いていたため、同時代の沖縄本島以外、または沖縄本島でも三山にまとまる前の時代を「グスク時代」と呼びます。

三山時代は約100年間続き、その間は朝鮮と中国に朝貢しながら交流を深めていましたが、やがて南山の佐敷按司となっていた尚巴志(しょう・はし)を筆頭とする第一尚氏が勢力を増し、1406年に中山を、1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼして三山を統一し、「琉球王国」を成立させました。

琉球王国の王族

琉球王国の王族についてご紹介します。

琉球王国を統一した「第一尚氏」

琉球統一の少し前、勢力を増した南山の佐敷按司、尚巴志は1406年、当時の中山王を攻撃して王統を滅亡させ、首都を首里(現・那覇市)に遷します。このとき、父である尚思紹(しょう・ししょう)を中山王に即位させ、初代の第一尚氏王統としました。

その後、尚巴志は1416年に北山の国王を倒し、次男である尚忠(しょう・ちゅう)を北山監守に据えることで北部を制圧。1421年に父・尚思紹が亡くなると中山王に即位し、1429年にはついに南山の王を滅ぼして、第一尚氏王統による琉球王国初の統一王朝を成立させました。

第一尚氏の王朝では、日本の本土や中国(明)、朝鮮半島(李朝)、ジャワ、マラッカなど近隣諸国との交易を積極的に行って外交に注力したものの、内部の権力基盤は十分に築けていませんでした。統一王朝を成立させたとはいえ、各地の按司やその他豪族の勢力はまだまだ強く、中央集権国家とは言い切れなかったのです。

クーデターで王位を奪った?「第二尚氏」

琉球王国の玉座

1469年、第一尚氏の7代目国王である尚徳(しょう・とく)王が死去すると、その父で6代目国王だった尚泰久(しょう・たいきゅう)王の重臣であった金丸(幼名、のちの尚円/しょう・えん)が王位を継承し、第二尚氏王統の初代国王となりました。

尚円王の即位は正史によれば重臣らの推挙で、となっていますが、実際にはクーデターによる即位だったとされています。尚円王自身がどの程度クーデターに関与していたのか、あるいは全く関与していなかったのかは不明ですが、尚徳王の世継ぎが兵士によって殺害された、すなわちクーデターがあったこと自体は第二尚氏公式の史書「中山世譜」や「球陽」に記述が残っています。

第二尚氏の王統では、3代目尚真(しょう・しん)王の時代に中央集権化に成功。対外的にも石垣島や与那国島に侵攻して各地の乱を制し、先島諸島の全域を支配下に治めたほか、奄美群島の北部までを征服、最大の国家規模となりました。

薩摩藩の琉球侵攻

豊臣〜徳川時代の薩摩藩の琉球侵攻について解説します。

秀吉・家康らの要求に応じず

16世紀後半、日本本土では戦国時代であり、豊臣秀吉の時代になっていました。秀吉は九州平定の延長線上で朝鮮も平定するつもりで、薩摩の島津氏を通じ、琉球王国に朝鮮征服を助成するよう要求します。しかし、琉球王国は財政事情や明国との関係上、要求された兵糧米の半分を差し出すにとどまりました。そのため、残りの兵糧や軍役は薩摩藩が負担しました。

その後も、渡航朱印状を持たない島津氏の船舶取り締まりや、徳川氏への謝恩使派遣要求も黙殺したことから、1609年3月4日、薩摩藩が琉球侵攻に乗り出します。島津家久が率いる島津氏の兵3000人に対し、琉球王国は4000人を集めて抗戦したものの、敗れてしまいました。4月5日にはついに第二尚氏7代目国王であった尚寧(しょう・ねい)王が和睦を申し入れ、以来、薩摩藩の支配下となります。

薩摩藩と清の二重支配

琉球から貢物などをのせて中国にわたった船(進貢船)

薩摩藩の支配下となった後も、琉球王国は明に替わって中国を統治するようになった清に対しても属国としての関係があったため、実質的に清と薩摩藩の二重支配を受けることになりました。とはいえ、国としての体裁は保たれており、独自の文化も廃れることなく維持されていたのです。

黒船来航から琉球処分、沖縄県へ

黒船来航から琉球処分、沖縄県になるまでをご紹介します。

黒船ショックは琉球王国から始まった!

ペリー提督の肖像です。

鎖国していた日本の浦賀(現・神奈川県横須賀市)沖にアメリカのペリー提督が現れ、開国を迫った「黒船ショック」は有名ですが、実はその1ヶ月半ほど前の1853年5月26日、琉球王国に来航しています。ペリーは武力外交をちらつかせていたため、琉球王国は半ば押し切られる形で翌1854年に琉米修好条約を結ばされてしまいます。

琉球処分によって沖縄県となる

明治政府は廃藩置県の当初、琉球王国は薩摩藩の管轄として鹿児島県の一部としましたが、翌年には一度琉球藩を設置、琉球国王を琉球藩の藩王とし、侯爵の位を授けました。その上で清との属国関係や通交を断ち、明治の年号を使い、藩王自ら上京することを迫りますが、藩王が従わなかったため強引に廃藩置県を進めることとなります。明治12年(1879)3月27日には明治政府の処分官が警官や兵を率いて首里城明け渡しを要求、同年4月4日には琉球藩を廃止、沖縄県が設置されました

これにより、約400年にわたって続いた第二尚氏の王統は終わり、地位を失った琉球の王族は日本の華族に組み込まれました。しかし、琉球の士族の一部は抵抗して清に救援を求め、清も明治政府の一方的な処分に抗議する、といったように外交問題が後を引くことになります。最終的には、日清戦争で日本が清に勝利したことで、琉球全域が日本の領有となりました。

独自の文化・地域性を守り続けた琉球王国

琉球王国は、徳川幕府よりも長い約400年にわたって同じ王統が続き、独自の文化を築いた王国です。途中、薩摩藩と清の二重支配状態や黒船ショックの始まりとなり、微妙な国際関係に悩まされることの多い地域だったものの、守り抜いた独自の文化や地域性は現在の沖縄県にも受け継がれています。

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