大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では比奈という名前で登場する北条義時の妻、姫の前。彼女は当時並び立つものがないとまで言われた美姫だったそうで、その美しさに惚れ込んだ義時からの熱烈なラブコールで結婚したそうです。今回は、そんな姫の前の生まれや義時の正室となった経緯、比企能員の乱や晩年についてご紹介します。
生まれから北条義時の正室になるまで
姫の前の生まれから義時の正室になるまでをご紹介します。
鎌倉幕府御家人、比企氏の娘
姫の前は、鎌倉幕府御家人である比企朝宗(ひきともむね)の娘です。比企氏は源頼朝の乳母である比企尼に連なる一族であり、その比企氏の系図によれば、比企朝宗は比企遠宗と比企尼の実子とされています。比企氏の家督を継いだ猶子(仮に結ぶ親子関係の子)・比企能員(ひきよしかず)とともに頼朝に仕え、治承・寿永の乱をはじめ数々の戦に参加しました。
実子であるにもかかわらず朝宗は比企氏の家督を継がず、猶子である能員が家督を継いだ理由として、朝宗が男子に恵まれなかったからだとする説があります。朝宗の妻は北条政子の官女であった越後局で、姫の前の他に男児を出産した記録があるものの、越後局が男児を産んだのは既に能員が家督を継いだ後でした。
義時の猛アタック
成長した姫の前は、並ぶ者のない美女になったとされています。例えば、「吾妻鏡」には以下のような記述があるほどです。
「比企の籐内朝宗が息女、当時権威無双の女房なり。殊に御意に相叶う。容顔はなはだ美麗なり」
「殊に御意に相叶う」とは要するに頼朝のお気に入りだったということ。非常に美しく、鎌倉幕府トップのお気に入りだった彼女は「無双」と称されるほどの権勢を誇っていたというわけです。そんな姫の前の美貌に惚れ込んだ義時は、1年あまりも恋文を送り続けましたが、一向に相手にされませんでした。
見かねた頼朝は、義時に「絶対に離縁しません」という起請文(契約を破らないことを、神仏に誓うための文書)を書かせた上で、姫の前に嫁に行ってはどうか、と勧めて2人の間を取り持ちます。頼朝のとりなしもあり、建久3年(1192)9月25日、ついに姫の前は義時の正室となりました。
その後の夫婦仲は順調だったようで、建久4年(1193)には義時の次男・北条朝時を、建久9年(1198)には三男・北条重時を産んでいます。
比企一族と比企能員の乱
姫の前の実家、比企一族と比企能員の乱についてご紹介します。
比企能員の乱
建仁寺に所蔵されている源頼家の肖像です。
能員には子どもが多く、男児も女児もよく生まれました。その中でも娘の若狭局は頼朝の実子・頼家の側室となり、頼家の長男・一幡を産みます。能員の妻は頼家の乳母だったことから、能員は頼家の乳母父でもあり、将軍家の外戚として非常に権力が強まりました。
これをよく思わなかった北条時政・政子父娘は、頼家が急病に倒れて危篤と判断されると、頼家の長男である一幡に将軍職を継がせまいと、頼家の弟である実朝を擁立しようとします。当然、能員はこれを不服とし、時政・政子父娘の謀反だとして頼家に訴えました。
頼家はこれを受けて時政追討を能員に任ずるも、政子に盗み聞きされていたため能員は返り討ちに遭ってしまいます。能員が殺されたことを知り、比企一族は一幡とともに屋敷にこもって防戦するも、北条氏の差し向けた大軍により、自害や殺害されてことごとく死亡。建仁3年(1203)9月2日のことでした。
なお、病状が回復した後、頼家は嫡男と比企一族が北条氏によって滅ぼされたことを知ると激怒したと言われています。
夫・北条義時に実家を滅ぼされて……
比企能員にゆかりのある妙本寺です。
比企能員の乱において、比企一族が防戦を繰り広げた一幡の屋敷を襲撃した北条軍を率いていたのが、姫の前の夫である義時でした。姫の前は、実家を滅ぼすために出陣していく夫をどんな心境で見ていたのでしょうか。ただし、このときの比企能員の乱において、姫の前の実父である朝宗は死亡や殺害された記録がありません。
単に史料が残っていないだけなのかもしれませんが、その後、比企氏は再び室町時代に姿を現し、上杉氏などに仕えたともされています。比企能員の乱で生き残った一族が再興したのだと考えると、朝宗も義時に見逃された、またはなんとか生き延びたとも考えられるでしょう。
なお、義時はその後も有力御家人を強引な手段で次々と排除していく父・時政とその妻・牧の方のやり方に反発し、2人を伊豆国へ追放しています。
比企能員の乱後から晩年まで
比企能員の乱後、晩年の姫の前について解説します。
源具親との再婚
比企能員の乱で夫に実家を滅ぼされたのちの姫の前の消息は不明ですが、藤原定家の日記「明月記」によれば、嘉禄2年(1226)11月5日の記載に「源具親の子(源輔通)は北条朝時の同母弟で、幕府から任官の推挙があった」というものがあります。
朝時の母は姫の前であることから、同母弟である輔通の母も当然、姫の前です。輔通は1204年生まれですから、姫の前は比企能員の乱後すぐに義時と離縁して上洛、具親と再婚して輔通を産んだと考えられます。
また、天福元年(1233)に朝時の猶子となった具親の次男、源輔時も姫の前の産んだ子だと考えられています。
晩年の姫の前
「明月記」にはさらに、承元元年(1207)3月29日に具親の妻が亡くなったと記されていることから、姫の前は再婚後、3〜4年ほどで亡くなったと考えられます。夫に実家を滅ぼされ、「絶対に離縁しない」という約束も果たされることはなかった失意の中、長く生きる気力は持てなかったのかもしれません。
権力に振り回され、悲劇を迎えた美姫
鎌倉幕府を開いた頼朝と強い結びつきがあった比企一族の娘であった姫の前は、並ぶことない美貌の持ち主でした。頼朝に気に入られ、義時の妻となるも、夫が実家を滅ぼすという悲劇に遭ってしまいます。「絶対に離縁しない」という約束は果たされませんでしたが、京での再婚後、姫の前の晩年が穏やかであったことを祈るばかりです。
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