日本人にとって非常に身近な中華料理のひとつであり、ゲーム『真・三國無双』シリーズなどでは体力回復アイテムとして扱われているように、アツアツを口にすれば元気が出る食べ物だ。
実はこの「肉まん」、三国志の主役ともいえる諸葛亮(孔明)が発明したという説がある。
西暦225年、孔明が南蛮を平定し、成都へ引きあげるときに瀘水(ろすい)という河にさしかかった。すると、河が荒れ狂っていて渡れない。土地の人々に聞けば「この河には荒神がいて、時に荒れ狂います。鎮めるには49個の人間の首を捧げなければなりません」という。
孔明は「合戦で多くの人が死んだ。もう一人も殺すことはできない」とつぶやくと、料理人を呼んで小麦粉をこねて人の頭の形に作らせ、中に牛や馬の肉をつめるよう指示。それを河に供えて祈った。すると氾濫は鎮まり、蜀軍は無事に河を渡ることができた、と『三国志演義』には記されている。
これは当初、蛮族の頭を意味する「蛮頭」(ばんとう)と呼ばれたが、後に食用となり、食べ物を意味する「饅」(まん)の字に転じて「饅頭」(まんとう)と呼ぶようになった。
これが肉饅頭(肉まん)の起源であり、日本に入って来てから「頭」が「ず」と訓読みされ、「まんず」が転じて「まんじゅう」と呼ばれるようになったという。
日本で饅頭といえば小豆の餡(あんこ)が入った菓子をイメージする人が多いだろうし、肉まんは「中華まん」と呼ばれるが、どちらも中国の饅頭(まんとう)が発祥なのだ。
日本で広く食べられるようになったのは、鎌倉時代から南北朝時代(13~14世紀)のこと。当時は仏教(肉食禁忌)の影響もあって野菜入りの饅頭が好まれたほか、お茶菓子として小豆あん入りの饅頭が作られるようになったという。
さて、三国志の時代に話を戻すが、実は「孔明が饅頭の発案者」という冒頭のエピソードは、孔明の時代より1000年も後の北宋時代に書かれた『事物紀原』に初めて記された。
それが『三国志演義』にも取り入れられて広まったため、フィクションの可能性もある。そもそも南蛮平定戦の経過は正史・三国志にはあまり記されておらず、大半が小説『三国志演義』の中での創作だからだ。
かの吉川英治氏も著作『三国志』の中で、孔明と肉まんの場面を記したあと「さて、どんなものか」と注釈を入れている。
その起源はあまりに古すぎて、結局よく分かっていないのだ。しかし、「頭」という字から察するに、元々は人の頭をかたどり、供え物として作られたのが始まりだという話は信じても良さそうである。
今の中国では中身に具が何も入っていないものを饅頭(まんとう)、あるいは花巻(ホアジュアン)といい、具入りの肉まんなどは「包子」(パオズ)と呼んで区別する。少々ややこしいが、現代でも中国の北部では米のご飯ではなく、饅頭(まんとう)を主食としている地方もあるくらいだ。
饅頭の語源が、人のアタマだったということを知って、もし食欲を無くす方がいらっしゃったら・・・お詫びを申し上げたい。