マリー・アントワネットといえば、フランス国王ルイ16世の妻でフランス王妃として有名ですよね。「お菓子を食べればいいじゃない」のフレーズでも知られていますが、これは彼女の言葉ではないという説が現在は有力となっています。しかし、その言葉がしっくりきてしまう背景があったことは否めないでしょう。そんなアントワネットの結婚は、想いが伴わない政略的なものでした。今回は、アントワネットがオーストリアからフランスに嫁いだ背景にはどんな事情があったのか、難航した婚約や盛大に行われた結婚式の様子についてご紹介します。
マリー・アントワネットは政略結婚だった
アントワネットは名門ハプスブルク家の生まれで、生まれたときから政略結婚の道具として利用される運命にありました。母であるマリア・テレジアには何人も娘がいましたが、恋愛結婚をしたのは4女のマリア・クリスティーネだけで、その他の多くの姉たちと末娘であるアントワネットは政略結婚だったのです。
オーストリアとフランスの関係
この時代のフランスとオーストリアは、戦争の影響やイギリス、プロイセンといった周辺諸国との利害関係もあり、険悪な状態にありました。フランスはイギリスと貿易覇権をめぐって対立していたため、強力な同盟国を必要としていました。一方のオーストリアは、プロイセンに奪取されたシレジアをなんとか取り戻したいと願い、プロイセンに敵対できるだけの後ろ盾が欲しいと考えていたのです。
女帝である母の思惑
1756年、フランスの同盟国だったプロイセンが、敵国のイギリスと友好関係を結びます。その直後、フランスはオーストリアと仏墺同盟を結びヨーロッパ中を驚かせました。これを受けたプロイセンは、フランス・オーストリア・ロシアと七年戦争を起こします。この戦争は1763年2月の「パリ条約」で終結しますが、フランスにとってもオーストリアにとっても散々な結果となり、オーストリアが狙っていたシレジア奪回も叶わなかったのです。
そこでテレジアは、フランスとの同盟関係をさらに深め安定を図ろうと考えます。それこそが、ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)に娘を嫁がせるという政略結婚だったのです。
結婚に至るまでの険しい道のり
ルイ・オーギュストとの結婚の話が進むことになったアントワネットですが、実際に結婚に至るまでは反対者も多かったため事態は難航しました。
祖国でのマリー・アントワネット
1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの11女としてウィーンで生まれた彼女は、マリア・アントーニアと呼ばれていました。
幼少期はダンスやハープ・クラヴサンの演奏が得意で、可愛く優雅でスタイルも良い女性だったといいます。ところが勉強はいまいちで、母国語のドイツ語文法は誤りが多く、輿入れ先のフランス語も話せず、歴史や社会常識といったものもほとんど理解していませんでした。そのため家庭教師がつきましたが、集中力がなくすぐにふざける癖があったので教師は頭を抱えたといいます。しかし一般的な劣等生というわけではなく、イタリア語は流暢に話せたそうです。
反対され、難航した結婚だった
オーギュストの結婚相手としてアントワネットが選ばれたのは、年齢の釣り合いが取れるという単純な理由でした。他の娘だとオーギュストより年上になってしまうため、1歳年下の彼女が適任だったわけです。この政略結婚に際し、母であるテレジアは大使としてメルシー伯爵を送り込み、フランス側のショワズール公爵とさまざまな画策をさせました。しかし、ショワズールと対立していたオーギュストの両親である王太子と王太子妃がこの結婚に大反対したため、事態は難航を極めます。それもそのはずで、王太子夫妻は王太子妃・マリー・ジョゼフの母国であるザクセン選帝侯家の姫を、オーギュストの嫁として迎えたいと希望していたからです。
しかし、1765年に王太子が病死し、1767年に王太子妃も突然病死してしまうと、反対者がいなくなったことで事態は一変します。ルイ15世からテレジアに文書が届き、ようやく両家は正式に婚約することになったのです。王太子夫妻の死については毒殺の噂も流れたようですが、真相は定かではありません。
盛大に行われた結婚式の様子
ようやく結婚の運びとなったアントワネット。その結婚式はかなり盛大に行われました。この政略結婚がいかに大きな意味を持っていたかわかるでしょう。
輿入れ式はストラスブール
彼女をフランスに引き渡す儀式は、ドイツとフランスを隔てるライン川の中州に設けた、ストラスブール近くの特別式場で執り行われました。今まで着ていた服をすべて脱いでフランス製の服に着替えた彼女は、そこを出るときにはフランス人となっており、名前もマリア・アントーニアからマリー・アントワネットに変わったのです。
ルイ15世はアントワネットの長旅のために、あらかじめ2台の豪華な馬車をウィーンに送っていました。綺麗な刺繡が施された赤と青のビロード張りの馬車は、座席周囲がガラス張りになっており、アントワネットの姿がよく見えたといいます。彼女の馬車の後ろには117人もの随行人を乗せた46台の馬車が続き、一行は各地で熱狂的な歓迎を受けました。
ヴェルサイユ宮殿での結婚式
2人の結婚式は、ヴェルサイユ宮殿内の王室礼拝堂で行われました。式への参加は親族や高位貴族などに限定されていましたが、回廊にはその他の人々が溢れ返っていたそうです。
そんな中、騎士団のユニフォームに身を包んだオーギュストと、たくさんのダイヤモンドが輝くシルバーのドレスを纏ったアントワネットが手を取りながら登場します。大司教が祝辞の言葉を述べると、オーギュストはアントワネットの指に指輪を通しました。その後は結婚証明書にサインをして式が終わりますが、このときアントワネットの名前にインクのシミがついたという不吉なエピソードが残されています。
結婚式を終えたその夜、結婚祝いとしてルイ15世が建築した宮殿内のオペラ劇場で晩餐会が開かれました。その後も観劇や舞踏会といった祭典が連日行われ、フランスは華やかさに包まれたのです。
祭典の最後を飾ったのはパリ市の花火で、この日は早朝から人々が集まりました。広場の噴水にはワインが注がれ、セーヌ川には多くの船が浮かぶなど、まさにお祭り騒ぎだったようです。しかし、主役の2人は連日の祭典に疲労しており、アントワネットがパリに向かったのは夜になってからでした。馬車の中で花火の音を聞き気分が高揚したアントワネットでしたが、人々が必死に逃げ惑う姿に直面して驚きます。実は大火事が起きて100人を超える犠牲者が出ていたのです。これももしかすると、何かの予兆だったのかもしれませんね。
16歳で嫁いだアントワネット
弱冠16歳で異国に嫁いだマリー・アントワネット。それは彼女の人生を大きく左右する出来事でした。その家柄からもともと政略結婚をする運命だったといえるアントワネットですが、オーストリア宮廷のように家庭的な暮らしができていたら結果は変わっていたかもしれません。とはいえ、フランス王妃になったからこそ彼女は歴史に名前を刻んだのでしょう。
盛大に行われた結婚式は暖かく祝福されたものでしたが、不吉な予兆といい、フランス革命からギロチン台へと続く険しい道の始まりだったように感じてしまいますね。
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