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【 十中十死・島津の捨て奸 】 壮絶!奇策!? 歴史に残る戦法の数々

【 十中十死・島津の捨て奸 】 壮絶!奇策!? 歴史に残る戦法の数々

戦いなしには歴史は語れませんが、多くの戦いの中でも後世に語り継がれる戦法がいくつも登場します。今回は、壮絶な戦法や思いもよらない奇策を用いた戦いをご紹介しますね。

十中十死・島津の「捨て奸(がまり)」

関ヶ原の戦いにおいて西軍に付いた島津義弘は、敗色濃厚の中、捨て奸という戦法を用いることを決断しました。周囲はすべて東軍に囲まれ、わずか300の兵で正面突破でもしなければ生き残る術はなかったのです。

殿の中から小部隊をさらに殿としてその場に留め置き、死ぬまで戦います。彼らが全滅したらまた新しい小部隊を留め置いて死ぬまで戦うという壮絶な戦法こそが、捨て奸なのです。この間に本隊と大将を逃がすことができれば、作戦は成功というものでした。

「島津の兵は勇猛果敢で知られました」

「島津の兵は勇猛果敢で知られました」

島津隊は退却の最中、退路に銃を持った兵士を数人座らせました。彼らが敵の指揮官を狙撃し、怯んだところで突撃するのです。これは個々の能力が高かった島津隊だからこそできた戦法でした。
これによって、東軍の松平忠吉や井伊直政は重傷を負っています。そして、大将の義弘は敵中突破に成功したのでした。

しかし、甥の豊久や家老の長寿院盛淳らは身代わりとなって戦死し、薩摩に帰還できた兵は80余りだったそうです。

これぞ奇策!ゲリラ戦法の神・楠木正成が指揮した千早城の戦い

「皇居外苑にある楠木正成像」

「皇居外苑にある楠木正成像」

打倒鎌倉幕府を掲げた後醍醐天皇に従った楠木正成は、天皇が流罪になっている間に千早城(大阪府)にて幕府全軍と刃を交えます。圧倒的な兵力差は、1000対20万とも伝わっています。

正成はゲリラ戦を得意としており、まず手始めに上から糞尿をかけたり巨石を落としたりして幕府軍を翻弄します。水と兵糧も蓄えておき、持久戦に予め備えていました。さすがです。
そして正成の奇策が発動します。藁人形に鎧を着せて武器を持たせ、夜のうちに城の麓に設置し、その後ろに兵を潜ませます。
やがて夜が明けると、鬨の声を挙げさせました。これで幕府軍は相手が攻撃してきたと思い攻め寄せます。兵は矢を放ちつつ退却し、幕府軍が藁人形に到達したあたりで大量の巨石を上から投げ落としました。これではひとたまりもありません。幕府軍は大損害を被りました。

正成の奇策はまだ続き、幕府軍が橋をかけて攻め上ろうとすると、水鉄砲に油を仕込んで放射し、松明を投げつけて炎上させたのです。大混乱の幕府軍は折り重なって橋と共に下に落ち、辺りは火の海になり幕府軍は大敗北を喫しました。

残酷!豊臣秀吉の「鳥取の飢え殺し」

織田信長の命により中国地方の毛利征伐の大将となった羽柴(豊臣)秀吉は、天正9(1581)年、鳥取城を包囲します。
この前の合戦でも兵糧攻めを行った彼は、今回もそれを用いました。さらに過酷ではありましたが・・・。

まず、鳥取城がある因幡周辺の米を高値で買占め、周辺の農民を追い立てて城に逃げ込ませ、籠城人数を増やしました。加えて毛利氏からの兵糧の搬入も阻止します。
城には20日分の食糧しかありませんでした。ほどなく人々は飢餓状態に陥り、家畜や植物を食べ尽くします。4ヶ月経つと、ついには餓死者の肉まで食べるようになったのでした。子は親を、弟は兄を食べるなどという阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられたのです。

あまりにも凄惨な城内の様子に、城主の吉川経家は自決と引き換えに開城を申し出、了承されました。

「鳥取城正面入口に設置された吉川経家像」

「鳥取城正面入口に設置された吉川経家像」

島津の捨て奸は、義弘を何としても守るという薩摩武士の心意気に泣かされます。こうした壮絶な戦法や奇策は、成功したからこそ後世に残るわけですが、その裏には武士たちの命をかけた覚悟があったのですね。こうした戦法はまだまだ他にもあります。それらを知ると、さらに思い入れが深まると思いますよ。

(xiao)

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