【井伊直政の養母:井伊直虎】お家断絶を阻止した女城主の生涯とは?

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【井伊直政の養母:井伊直虎】お家断絶を阻止した女城主の生涯とは?

井伊直虎は、戦国時代、遠江・井伊谷(いいのや)の女城主となったことで知られています。平成29年(2017)には、柴咲コウさん主演・NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』で主人公として取り上げられたことから、ご存じの方も多いのではないでしょうか。彼女は徳川四天王・井伊直政を養育し井伊家を再興しましたが、そこに至るまでにはさまざまな苦難があったようです。
今回は、直虎という女城主が誕生するまでの経緯、井伊家領をめぐる攻防戦、井伊家の再興などについてご紹介します。

 

女城主の誕生まで

直虎はなぜ城主となったのでしょうか?井伊家に女城主が誕生するまでの経緯について振り返ります。

井伊家の歴史とは?

井伊家発祥の井戸

藤原家の流れを汲む井伊家の始まりは約1000年前で、龍潭寺(りょうたんじ)の井戸の傍らで保護された藤原共保(ともやす)が初代とされています。鎌倉時代には遠江・井伊谷に勢力を築いて国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子・宗良親王を迎えて一大勢力を形成。しかし、戦国時代になると、今川家の圧力により支配下に置かれました。
直虎はこの井伊谷の地で、井伊直盛の娘として誕生します。「井伊直虎」という名は歴史上1通の書状のみにしか見られませんが、通説では、江戸時代に書かれた『井伊家伝記』に記載される次郎法師(じろうほうし)と同一人物とされています。生年は定かではなく、天文5年(1536)前後にうまれたと推測されています。

井伊家当主だった父・井伊直盛

直虎の父・直盛は、井伊家の22代当主でした。『井伊年譜』には「井伊直平の娘が築山殿を生んだ」とあり、これが本当ならば直盛と築山殿(徳川家康の正室)は従兄妹となります。直盛は戦場において大軍の先陣を任されるほどでしたが、今川家が織田信長と対立した永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで家臣とともに討ち死にしました。この戦いでは総大将だった今川義元の首も討ち取られ、今川勢は敗退。義元の死をうけて、義元の子・今川氏真が今川家12代当主に就任しました。

元許嫁・井伊直親の死

跡継ぎとなる男子がいなかった直盛は、叔父・井伊直満の子である直親を娘の直虎の許嫁にします。しかし、井伊家家老・小野政直の調略により直満が義元に誅殺され、直親は家臣に連れられて信濃国へと逃亡。直虎は悲しみから井伊家菩提寺・龍潭寺に出家し、次郎法師と名乗るようになりました。数年後、井伊谷に帰参した直親は直盛の養子となりますが、すでに仏門に入っていた直虎は結婚できず、生涯独身を貫くことになりました。直親は井伊一族の奥山朝利の娘・ひよと結婚し、養父・直盛の戦死により家督を継承。しかし、家老・小野政次(道好)の調略により主君・氏真から家康との内通を疑われ、陳謝に向かう道中、今川家重臣・朝比奈泰朝に殺害されました。

次郎法師、還俗して領主に

直虎が治めた井伊谷の地

直親の死後、井伊家の男児は直親の遺児・虎松(後の井伊直政)のみでした。そのため、永禄8年(1565)出家していた次郎法師が還俗(げんぞく=僧籍を離れること)。以降、彼女は井伊直虎と名乗り遠江・井伊谷の女城主となります。この背景には、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞(なんけいずいもん)の考えがありました。嫡流が絶え幼い虎松しか男児のいない井伊家はもはや断絶寸前。そこで南溪和尚の提案を受けた井伊家は、直系の血筋である直虎を当主とし、虎松の後見人にしたのです。この相続は君主・今川家にも認められ、直虎はいずれ虎松に家督を継承すべく己の務めを果たすことになったのでした。

領土をめぐる攻防戦

還俗して女城主となった直虎ですが、時代は混乱状態にあり、領土をめぐる戦いが絶えませんでした。井伊家をとりまく攻防戦について振り返ります。

武田信玄の外交方針の転換

直虎や虎松らが逃れた、井伊氏の菩提寺・龍潭寺

桶狭間の戦いで義元が敗死した後、今川領では動揺が広がりました。それまで今川家に臣従してきた家康が独立し、信長と同盟を組んで今川家と対立。このような情勢の変化に伴い、武田家と今川家の同盟関係にも緊張が生じます。永禄10年(1567)今川家の塩止めにより甲相駿三国同盟が破綻。武田家では、親今川派の嫡男・武田義信が廃嫡される事件も発生しました。そして永禄11年(1568)、武田信玄は家康と今川領の遠江と駿河を分け合うことを約束して、共同で侵攻を開始します。

家老・小野政次の支配

永禄9年(1566)今川家は井伊家の力を弱めるための徳政令(借金帳消し令)を出しましたが、直虎は2年間引き延ばしました。徳政令が施行されると、借り手の領民は救われるものの貸し手の商人は苦しくなります。そうなれば井伊家の経済基盤は弱まり、領主としての立場を失いかねませんでした。しかし永禄11年(1568)、ついに徳政令を受け入れざるを得なくなると、直虎の統治権ははく奪され、家老・小野政次(道好)が井伊領を支配。居城・井伊谷城も奪われてしまいますが、反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に遠江侵攻中だった家康が加担し、実権を回復します。

武田家と徳川・織田連合軍の対立

駿河・遠江へ侵攻を開始した武田・徳川両軍は、破竹の勢いで今川領を攻略しました。わずか半年後の永禄12年(1569)5月には、氏真が掛川城で降伏し大名としての今川家が滅亡します。しかしその後、武田家と徳川家が対立。元亀3年(1572)武田家が遠江へ侵攻すると、井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡し、直虎らは徳川家の浜松城へと逃亡しました。徳川家と武田家は遠江の領有を巡って対立し、その後は武田軍と徳川・織田連合軍が対立するようになります。

井伊家の再興を目指して

直虎は戦乱のなかで井伊家の再興を目指します。彼女は直政の養育によってその使命を果たしました。

井伊直政の出世道をひらく

直虎が後見人となっていた虎松は、政次が井伊谷の領主となったときに命を狙われたことから三河国・鳳来寺に匿われていました。天正2年(1574)12月、直親の十三回忌法要が龍譚寺で営まれることになると、南渓和尚の取り計らいにより虎松が井伊谷に呼び寄せられます。このとき、虎松の母、直虎の母、直虎、南渓和尚らで話し合いが行われ、虎松を徳川家に出仕させ井伊家復興をはかる方針が定まりました。虎松の母は徳川家臣・松下清景と再婚し、虎松は養嗣子(家督相続のための養子)として松下虎松と名乗るようになります。そして天正3年(1575)、虎松は鷹狩りに出ていた家康と面会し、小姓として取り立てられました。

直政、徳川四天王へ!

彦根城博物館所蔵の井伊直政像です。

家康への出仕が決まると、直虎は母とともに小袖を仕立て直政に与えたといわれています。その後、井伊姓を名乗ることを許された虎松は井伊万千代と改名し、元服後は井伊直政と名乗りました。直政が元服する前の天正10年(1582)8月、直虎はその晴れ姿を見ることなく激動の生涯に幕を閉じます。直虎は菩提寺の龍潭寺に葬られ、生前には結ばれることのなかった直親の隣で眠りにつきました。その後、直政は家康のもとで出世を重ね、やがて徳川四天王の1人に数えられるほどに成長します。そして、徳川幕府の基礎づくりに大きく貢献したのでした。

歴史ある井伊家を存続させた

桶狭間の戦い後の混乱により、お家断絶の危機に直面した井伊家。直虎は女の身で城主となり、井伊家を存続させるべく直政を養育し、見事に井伊家を再興させました。直政はのちに彦根藩の初代藩主となり、譜代大名の筆頭として江戸幕府を支えています。彼が築いた彦根藩は、その後も井伊直弼ら多くの傑物を輩出。その流れの礎は、歴史ある井伊家を存続させた直虎にあったともいえるでしょう。


大河ドラマ「おんな城主 直虎」
放送日時:2021年4月7日(水)放送スタート 月-金 朝8:00~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/naotora/
出演:柴咲コウ(おとわ/次郎法師/井伊直虎)、三浦春馬(亀之丞/井伊直親)、高橋一生(鶴丸/小野政次)、杉本哲太(井伊直盛)、財前直見(千賀/祐椿尼)、貫地谷しほり(しの)、阿部サダヲ(竹千代/徳川家康)、菜々緒(瀬名/築山殿)、前田吟(井伊直平)、小林薫(南渓和尚)、柳楽優弥(龍雲丸)、菅田将暉(虎松/万千代/井伊直政) ほか
制作:2017年/全50話
作:森下佳子(『JIN-仁-』、連続テレビ小説『ごちそうさん』)
音楽:菅野よう子
語り:中村梅雀
コピーライト:©NHK


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