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【 63人を射倒した!?】 家康も驚愕!三河一向一揆で活躍した弓の名手・柴田康忠

永禄6年(1563)9月、三方ヶ原の戦いや伊賀越えと並んで徳川家康の三大危機とされる三河一向一揆が起こりました。
寺社とのいさかいから生じた争いが一向一揆の大きなうねりとなり、反松平勢力と結びついて一大内戦に発展したのです。
今回は、その三河一向一揆での達人伝をご紹介します。

三河一向一揆の背景

「大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」

「大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」

この三河一向一揆は、家康の前半生の最大の危機と言っても過言ではありません。
争いの発端は、家臣が寺の不入の権を侵して兵糧米を徴発したとか、寺領に勝手に砦を築いたとか、寺で庇護されていた者を無理に連行したなど、諸説あります。
当時まだ半独立を保っていた寺社が、勢力下に組み入れられる中での反発なのかもしれません。

「一揆」というと農民のイメージですが、実態はそう単純ではありません。
反乱は三河の重要な穀倉地帯の碧海郡を含めた四郡に及び、旧今川勢力の東条吉良家が反家康勢力を結集して攻撃を開始しました。
各地の城主が独立して盟約を結び連合して松平家に敵対してきたのです。
さらに宗教も絡んでいたため、家臣たちも一向一揆側に立つこともありました。このとき、のちに徳川家の忠臣として名高い本多正信さえ離反しています。
まさに内戦といっていいレベルでした。

知ってのとおり一向衆は死を怖れず、信長もさんざん手こずった相手。ここに武家勢力も加わっているのですから堪りません。

同じ名前の矢がなんと63本も!?

上和田の城は反乱勢力に包囲されて危機に陥り、家康自らが出陣して激戦を繰り広げました。
家康自身も鉄砲の弾を二発も胸に被弾し、あやうく討死するところだったそうです。
鎧の装甲がもう少し薄かったら危なかったとか・・・。

歴人マガジンではおなじみ徳川家康の肖像画。

この時家康が亡くなっていたらどうなっていたのか…

そんななか、上和田の戦場で遺骸を処理している男が身体から突き出ていたある矢に気付きます。
表面には矢の持ち主と思しき名が記されていました。
戦場では乱戦で誰が誰を倒したか分からなくなる事もあったため、これは珍しいことではありません。飛び道具の弓矢となるとなおさらでした。

なにせ手柄を立てるために奮戦してるのですから「俺の矢だぞ」とはっきりさせる必要があります。そのため、矢に印をつけたり名前を入れたりしていたのです。

ではなぜ注意を惹かれたのかというと、その矢に書いてある名を目にするのが、初めてではなかったからです。
一本や二本ではなく、あちらこちらで目撃していたのでした。

試しに同じ名前の矢を集めてみると、なんと全部で63本という驚くべき数になったのです。
これは、いかに戦場といえど、一人の成果としては信じられない多さです。

敵味方に分かれていても同じ武人。
相手の技量に感心し、綺麗にした矢に書状をつけて、家康に送り届けたのでした。

家康からもらった名前の由来は…

いっぽうの家康も、届けられた63本の矢の束を見て驚嘆します。
書状には矢で射たれた者の名前がずらりと並んでいました。

持ち主がわかるとさらに家康はさらに喜びます。
柴田政忠
弓の名手としての誉れが高く、今回は浄土宗に宗旨替えしてまで家康に味方した男でした。

あの宮本武蔵でも一度の決闘で63人も倒すのは難しいでしょう。
道場では強くても実戦では分からないといった話もありますが、政忠は実戦でもずば抜けた弓の名手だということを証明したわけですね。

感動した家康は、政忠に自分の偏位である「康」を与え「康忠」と名乗らせます。
これは当時よく行われていたやり方で、「身内同然」という意味を持たせるのです。

政忠は喜びますが、家康は続けて、通称だった「孫九郎」を「七九郎」にするよう命じたのです。さらに家紋にも七と九の字を入れよといいます。

「“康忠”はともかく、なぜに七九郎・・・?」

不思議顔の政忠に対して、家康はこう言い放ったそうです。

「かけてみよ。七と九で六十三じゃろうが、ハッハッハッ」

本当だったら、実像の家康は結構お茶目だったのかもしれませんね。

(aoba)

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