【富岡製糸場と渋沢栄一】日本初の器械製糸工場が「世界遺産」になるまで

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「日本資本主義の父」といわれ、NHKの大河ドラマ『青天を衝け』の主役にもなった渋沢栄一。彼は500以上の企業の設立や運営、600以上の社会福祉事業に携わったといわれていますが、それ以外にも日本の近代化に伴うさまざまな取り組みに従事しました。その1つが日本初の器械製糸工場である富岡製糸場です。

今回は、富岡製糸場と渋沢栄一の関係について知りたい人に向けて、設立と変遷、富岡製糸場に関わった人々、栄一の製糸業への功績などについてご紹介します。

富岡製糸場の設立と変遷

栄一は富岡製糸場とどのように関わっていたのでしょうか?富岡製糸場が設立された背景や変遷などについて振り返ります。

設立の目的と背景

明治期の富岡製糸場の外観

江戸時代に鎖国政策を行っていた日本は、開国後に外国との貿易を本格的に始めました。当時の主力輸出品は生糸でしたが、輸出の急増により需要が高まると質の悪い生糸が大量に流通。これにより日本の生糸の信用が落ち、価格の下落が起こります。諸外国からは品質改善や外国資本による製糸工場の建設が求められ、明治政府は生糸の品質改善や生産向上を目指しました。しかし、民間の資本による工場建設は難しかったため、政府は洋式の繰糸器械を備えた官営の模範工場建設を計画します。この模範工場については、「洋式の製糸技術の導入」「外国人の指導者の採用」「全国から工女を募集し、出身地へ戻った工女は器械製糸の指導者とすること」などが基本的な考えとして取り入れられました。

渋沢が設置主任の1人に

当時、栄一は明治政府の大蔵省租税正(そぜいのかみ)という立場でした。栄一は幼少期から家業の農家や藍玉製造、養蚕などを手伝いながら学問を学び、のちに京都で一橋慶喜に仕官。慶喜が15代将軍になると、慶喜の弟・徳川昭武のパリ万国博覧会視察に随行して西洋の産業や文化に触れます。ここで得た知識をもとに静岡藩で銀行と商社を兼業する商法会所を設立しましたが、大隈重信に声をかけられ明治政府の官僚となりました。

こうした流れなどを経て大蔵省に仕官していた栄一は、もともと農家出身で養蚕に詳しかったことから富岡製糸場の設置主任に就任。ほかにも中村祐興、玉乃世履、杉浦譲、尾高惇忠が主任に任命され、ともに富岡製糸場の建設計画を進めました。

なぜ富岡が選ばれたのか?

栄一はフランス公使館通訳のアルベール・シャルル・デュ・ブスケやエシュト・リリアンタール商会横浜支店長のガイゼンハイマーから、生糸検査人であるポール・ブリューナを紹介されます。ブリューナの作成した「見込み書」を吟味した明治政府は、明治3年(1870)に仮契約を締結。ブリューナと惇忠らはいくつかの予定地を視察し、正式な雇用契約を取り交わしたあと、富岡を製糸場建設地に決定しました。富岡が選ばれた理由は、養蚕業がさかんで繭の調達が容易であることや、必要資源の調達が可能なことなど、さまざまな要件が考慮された結果だったようです。

製糸工場としての活躍

富岡製糸場の繰糸所

富岡製糸場の建設は明治4年(1871)から始まり、翌年の7月にはおもな建造物が完成、10月4日には操業を開始しました。全国から集まった伝習工女たちが繭から生糸を取る「繰糸所」で働き、日本での本格的な器械製糸がスタートします。富岡製糸場は当時の製糸工場としては世界最大規模で、品質重視の生糸は海外で高く評価されました。

器械製糸の普及と技術者の育成という目的が達成されると、富岡製糸場は明治26年(1893)に三井家に払い下げられます。昭和13年(1938)には「株式会社富岡製糸所」として独立するも、翌年には日本最大の製糸会社・片倉製糸紡績株式会社と合併。製糸業の衰退とともに昭和62年(1987)3月に操業を停止しました。

現在は「世界遺産」「国宝」に

その後も建物は保管され、平成17年(2005)9月以降は寄贈先の富岡市によって管理されることになります。平成18年(2006)7月にはおもな建造物が重要文化財に指定され、平成26年(2014)6月には世界遺産にも登録。同年12月には「繰糸所」「西置繭所」「東置繭所」の3棟が国宝となりました。現在の富岡製糸場は一般公開もされており、解説員によるガイドツアーや音声ガイド機での解説案内も実施されています。

富岡製糸場に関わった人々

富岡製糸場の設立には多くの人物が関わりました。ここでは栄一以外に深く関わった3人についてご紹介します。

尾高惇忠

尾高惇忠の肖像です。

尾高惇忠(おだかあつただ/じゅんちゅう)は幼少期から学問に秀でており、自宅に私塾「尾高塾」を開いて近郷の子弟たちに漢籍や論語などを教えていました。栄一とはいとこの関係で、栄一も惇忠から教えを受けた1人です。また、惇忠の妹・千代は栄一の最初の妻にもなっています。明治維新後、大蔵省の官僚となった栄一の縁で富岡製糸場の設置主任に就任。工場建設の中心を務めた惇忠は初代場長に就き、退職するまで誠意を尽くして製糸場の経営にあたりました。

尾高ゆう

尾高ゆうは惇忠の娘で伝習工女第1号となった女性です。惇忠が初代場長に就任したあと、操業開始に向けて工女の募集をしたところ人が集まりませんでした。というのも、指導するフランス人技師の飲む赤ワインが若い娘の血と誤解され、「工女になると生き血を飲まれる」と噂されたからです。これにより富岡製糸場は当初の予定より開業が遅れたといわれています。そんな状況を打破すべく当時14歳のゆうが伝習工女第1号として入場すると、ようやく噂が払拭され工女が集まったということです。

韮塚直次郎

韮塚直次郎(にらづかなおじろう)は煉瓦製造や建築資材調達のまとめ役を担当していました。当時、西洋技術を用いた大規模工場の建設は手探りの状態で、煉瓦の製造方法を知る日本人はいなかったようです。そこで直次郎は出身地の明戸村(現在の深谷市)から瓦職人を呼び寄せ、フランス人技師の指導のもと煉瓦の素材や製法を学び、試行錯誤のすえに煉瓦を焼き上げることに成功。明治9年(1876)には蒸気を動力源とした器械製糸場・韮塚製糸場の操業も開始しました。

渋沢の製糸業への功績

栄一は富岡製糸場の設立以外にも製糸業に尽力しています。どのような功績を残したのでしょうか?

「島村勧業会社」を支援

「田島弥平旧宅(世界遺産である「富岡製糸場と絹産業遺産群」の1つ)」のある群馬県佐位郡島村(現在の伊勢崎市境島村)は、古くから養蚕などが盛んな地域でした。蚕種業者たちは横浜に蚕種を持ち込み、外国人との交渉により莫大な利益を得たといいます。しかし、全国で粗悪品が出回ったため価格が暴落してしまい、島村の郷長・田島武平は妻のいとこである栄一に相談します。栄一は蚕種農家などを会社組織として束ねるよう助言し、定款の作成や銀行からの資金調達の仲介などを全面的に支援。これにより「島村勧業会社」を設立した武平は初代社長に就任し、品質が向上した島村産の蚕種は高値で取引されるようになりました。

宮中御養蚕の世話役を推薦

毎年、皇居内の紅葉山御養蚕所で行われる「宮中御養蚕」は、明治初期から現在まで引き継がれています。明治初期、宮中で養蚕を行いたいという話があったとき、養蚕に詳しい者として栄一が推薦されました。しかし、栄一は多忙のため、親戚の武平を世話役として推薦します。武平は宮中御養蚕に奉仕し、翌年も世話役に任命されました。

絹産業の技術革新に貢献した

日本初の本格的な器械製糸工場となった富岡製糸場。その設立の背景には、「日本資本主義の父」といわれる渋沢栄一の働きがありました。絹産業の技術革新にも大きく貢献したこの工場は、現在でも世界遺産、そして国宝として保存されています。この機会に富岡製糸場へ足を運んでみて、当時の活況や風景に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

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