【あと少し運があれば…】土佐の大名から一転!大坂五人衆・長宗我部盛親

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長宗我部といえば元親。十中八九、そう思う方が多いでしょうね。土佐の出来人と呼ばれた父を持つ、四男の盛親。大河ドラマ「真田丸」では大坂五人衆の一人として登場しますが、彼はどんな運命をたどってきたのでしょうか。もう少し運があれば・・・そう思わせる盛親の人生を見ていきましょう。

四男だったのに長宗我部家の当主に!

結構なコワモテの長宗我部盛親(京都・蓮光寺所蔵)
結構なコワモテの長宗我部盛親(京都・蓮光寺所蔵)

天正13(1575)年、長宗我部元親の四男として盛親は生まれました。
本来なら家督を継ぐ身ではありませんでしたが、長男・信親は九州征伐で戦死し、次男・香川親和と三男・津野親忠は他家を継いでいるという理由から、父に溺愛されていた幼い盛親が世子になったのです。しかし、これは後々禍根を残すことになります。

盛親は、豊臣秀吉の小田原征伐朝鮮出兵への参加を経て、慶長4(1599)年に家督を相続し当主となります。

翌年の関ヶ原の戦いでは最初の不運が待ち受けていました。
当初東軍につこうとした盛親ですが、手違いで西軍に。しかも布陣した南宮山は毛利方と同じ場所だったのです。毛利方の吉川広家は徳川方に内通しており、兵を動かしませんでした。このとばっちりを受けて、盛親は戦いに参加すらできないまま負けてしまったのです。

関ヶ原の戦いの長宗我部盛親陣跡(岐阜県不破郡垂井町)
「関ヶ原の戦いでの盛親の陣跡」(岐阜県不破郡垂井町)

一大名が寺子屋の先生に…

戦後、土佐へ戻った盛親は、懇意だった井伊直政を通じて徳川家康に謝罪し、本領安堵を試みました。
しかしこの直前、家臣の久武親直が彼に訴えます。兄・津野親忠が、親しい藤堂高虎と謀って土佐半分をものにしようとしているというのです。

盛親が家督を相続する際に兄たちを押しのける形になっていたため、兄弟間でもやもやがあったことは事実でしょう。そして盛親は兄を殺してしまったのです。しかし、親直の言葉は讒言でした。

結果、このことを耳にした家康は盛親を「兄殺し」と激しく咎め、謝罪は受け入れられず改易となってしまうのです。
盛親は京都で蟄居生活となりました。寺子屋で先生をして、子どもたちに学問を教えていたといいます。

風雲急を告げる!大坂の陣へ

そんな中、慶長19(1614)年、豊臣秀頼から大坂城へ招かれたのでした。秀頼からは土佐一国を授けるという打診があったそうです。そこで盛親は旧臣らと合流し、大坂城へ向かいました。この直前、京都所司代・板倉勝重には「徳川方に味方するつもりでいる」と嘘をつき油断させていたそうです。

首尾よく大坂城へ入った盛親は、大坂五人衆の一人として大きな存在感を持ちました。
冬の陣での盛親は、木村重成後藤又兵衛らと共に真田丸の支援役に徹し、井伊直孝や松平忠直隊を退けています。

そして夏の陣、これが彼の最大の活躍の場にして最後の戦いとなりました。

木村重成と組んで八尾・若江の戦いに臨んだ盛親は、藤堂高虎率いる隊と衝突します。先鋒がやられたものの、盛親は猛攻に転じ、藤堂隊をパニックに陥れるほど痛めつけました。

『大阪落城大戦図』
『大阪落城大戦図』

ところが、ここにも不運が待ち受けていました。木村隊が壊滅し、井伊隊が藤堂隊の援軍に駆けつけたため、盛親はこれ以上の反撃を断念し、大坂城へ退却せざるを得なくなったのです。

命さえあれば、また挙兵するのみ

その後、京都八幡付近で潜伏していた盛親は捕らえられ、六条河原で斬首となりました。
捕らわれた際に盛親は命乞いをしたといいます。ここには彼なりの考えがありました。

徳川方の兵に自害しなかったことを笑われると、盛親は「大将たる身が軽々と討死すべきではない。折があれば再び挙兵して恥をそそぐのみだ」と答えたそうです。死に際は堂々とした様子だったと伝わっています。

「盛親の墓(京都府・蓮光寺)」
「盛親の墓(京都府・蓮光寺)」

運が向いてくれば、命さえあればまた名を挙げることもできる・・・盛親はそう考えていたのでしょう。
生まれる場所や時代、そして時の運の巡りが違っていれば、盛親はもっと名を挙げることができたのかもしれませんね。

(xiao)

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