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【 ざっくり5分で読む 】原因、結果は?今改めて知りたい応仁の乱とは

歴史好きなら「応仁の乱」を、知らない人は少ないでしょう。戦国時代が始まったきっかけとされていますが、その知名度とは裏腹にその実態はよく知られていない、もとい習ったけどよくわからないという人も多いと思います。興福寺の僧が残した史料を中心に読み解いた呉座勇一さんの『応仁の乱』が現在ベストセラーになっていますが、今回は「応仁の乱」の基本のきを紹介します。

応仁の乱とは?

伝足利義政像
(伝土佐光信画、東京国立博物館蔵)

室町幕府8代将軍・足利義政は、妻・日野富子との間に子供ができませんでした。そのため、僧だった弟・義視を還俗させて後継ぎにすると決めたのです。
ところが、その直後になんと富子に子供ができました。後の義尚です。自分の息子を後継にしたいと考えた富子は、有力守護大名の山名宗全に後見を頼みます。

一方、義視は同じく守護大名で三管領のひとり、細川勝元を頼りました。こうして将軍家の後継問題と守護大名の対立の構図ができ上がったのです。

これだけではありません。管領である畠山家も、義就と従兄弟の弥三郎・政長兄弟らが後継問題で揉めており、ここにも宗全と勝元が介入していました。また、斯波氏、六角氏など周辺の守護大名はみなお家騒動を抱えていました。幕府はこれらの調停を試みましたが上手く行かず、火種を残していたのです。

そして応仁元(1467)年、畠山義就は上洛し将軍・義政に拝謁します。この時、政長が管領職を継いでいましたが(弥三郎は死去)、義政は彼を免職し、義就を就任させます。これで義就と政長の対立が決定的となり、上御霊神社で衝突したのです。ここには今も「応仁の乱勃発地」の碑が残されています。

「上御霊神社にある応仁の乱勃発地の碑」

火種は畠山義就VS畠山政長でしたが、その後ろに山名宗全と細川勝元というビッグ2がいて、彼らが将軍家の後継ぎ問題にも関わっていたことで、戦いは激化していくのです。

10年続いた戦いの経過と結果

細川勝元像
(龍安寺蔵)

宗全と勝元に呼応するかのように、ほぼ全国の守護大名が二手に分かれました。

【初期の対立構造】
細川勝元方(東軍)…足利義政、足利義視、畠山政長、斯波義敏、武田信賢、赤松政則、京極氏など
山名宗全方(西軍)…足利義尚、畠山義就、斯波義廉、一色義直、六角氏など

宗全側を西軍、勝元側を東軍とし、戦力はそれぞれ11万と16万にもなったそうです。

京都を舞台にしたこの戦いは、天皇・上皇を避難させるまでになり、盗賊の跋扈も許したため、やがて京の街を焼け野原に変えてしまいました。
守護大名の領国にも戦いが飛び火し、戦を阻止できなかった幕府の力も弱まり、皆が戦う意味を見失っていきました。そして、厭戦ムードが高まったのです。

また、文明5(1473)年には勝元と宗全が相次いで死去し、義政も隠居してしまいました。義視はすでに西軍に寝返っていたため、翌年に足利義尚が9代将軍に就任、勝元と宗全の後継者である政元と政豊が和睦を結び、京都での戦いは収束に向かったのです。その後もしばらくは各地で小競り合いが続きましたが、文明9(1477)年に諸大名が軍を撤収し、ついに応仁の乱は終結を迎えました。

戦国時代の始まり?

「応仁の乱」によって幕府権力が弱まり、戦国時代の始まったという説が一般的です。しかし最近では、乱の終結後、しばらくは幕府が回復に努めていたことがわかっています。

9代将軍・義尚は、長享元(1487)年、近江の守護大名の六角氏が勝手に荘園を占拠したとして、将軍自ら近江に進軍します。義尚は陣中で病死してしまいますが、永徳3(1491)年には、10代将軍・義材が再び近江に進軍するのです。

しかし、明応2(1493)年、義材が河内の畠山氏攻めに向かったところ、細川政元が日野富子らと通じてクーデターを起こし、将軍の首をすげ替える事件「明応の政変」が勃発。これにより幕府の権威は完全に失墜し、統治体制が崩壊したことから、この「明応の政変」を戦国時代の始まりとする説が有力になっています。

そもそも「応仁の乱」以前、「嘉吉の変」からすでに幕府の衰退は始まっていたとする見方もあります。嘉吉元(1441)年、「万人恐怖」と呼ばれる政治を行なっていた6代将軍・足利義教を、守護の赤松満祐が暗殺、領国の播磨で幕府討伐軍に討たれる「嘉吉の変」が起こります。独裁者だった義教を失った幕府は、管領だった細川持之の指導力不足により、機能停止に陥ります。討伐軍もなかなか編成されないまま、約2ヶ月後に満祐は切腹し、収束。この一連の出来事により、幕府の権威は失墜し、守護大名は合議制を復活させるなど、力を取り戻すのです。

そもそも、日野富子が原因だったのか?

8代将軍義政の暗愚や富子のわがままが注目されがちな「応仁の乱」でしたが、「嘉吉の変」から「応仁の乱」勃発までの幕府の衰退過程をたどることで、起こるべくして起こった戦いであったことがわかります。

しかも最近では、富子が戦乱の原因を作ったというのは、作者不詳の軍記『応仁記』の作ったデマだったという見方もあります。富子の妹が義視の妻となり、10代将軍・義材を産んだことからも、富子はむしろ義視寄りだったのではないかというのです。自分の息子よりも、家の存続が重視されていた時代、真相の解明が待たれるところです。

「応仁の乱」とは何だったのか?

細川勝元、山名宗全両大将をとっても、のちの時代に出てくる「戦いの天才」とは言い難く、「応仁の乱」が注目されない理由の一つだといえるでしょう。ただ、「明応の政変」が支配者層の権力闘争だったのに対し、「応仁の乱」は、無名の武将が活躍し出した最初の戦いでした。そんな彼らがやがて力をつけ、天下取りをする時代への布石と考えるならば、やはり「応仁の乱」は戦国時代のきっかけと言えるのかもしれません。

(xiao)

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