沖田畷、戸次川、さらには朝鮮や関ヶ原の戦場で、つねに少数精鋭で大敵を打ち破り、豊臣秀吉、徳川家康からも一目置かれた島津家。特に島津四兄弟の末弟・家久は、ひとりだけ妾腹の子という劣等感を跳ね返す活躍を見せ、最強とうたわれる次兄・義弘をもしのぐ猛将だといわれています。
今回は、短い人生で彼が残した足跡と武人としての魅力をご紹介しましょう。
コンプレックスを跳ね返して
薩摩島津氏は鎌倉以来の名門として知られ、一時は薩摩・大隅・日向三つの守護に任ぜられることもある、南九州随一の守護大名でした。が、戦国時代に入ると島津本家は衰退します。日新斎(島津忠良)から始まる新たな島津本家は、旧本家の衰退に伴う南九州の騒乱の中から実力でのし上がってきた勢力でした。
そんな実力派・日新斎は四兄弟の中でも、家久のことを「軍法戦術に妙を得たり」と評したといいます(『島津義弘公記』)。これは島津四兄弟の個性を際立たせる創作ですが、家久の特質をよく捉えた表現といえるでしょう。後に、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスも「きわめて優秀なカピタン(武将)」と評しています。
四兄弟のなかで、家久は上の3人と10歳以上も歳が離れています。しかも上3人が正室・雪窓夫人を生母にしているのに対し、家久だけは側室が生母でした。
妾腹の家久は、すぐ上の兄・歳久に出自のことで遠回しに皮肉を言われます。しかし、長兄・義久が「一生懸命武芸と学問に励めば、父母よりも立派な人間になれるのだ(出自など関係ない)」と言ってくれたことがきっかけで発奮し、努力したのです。立派な武将に成長していくと同時に、兄への固い忠誠も育まれていったのでしょう。
初陣は永禄4(1561)年、15歳の時でした。大隅国の肝付氏との戦いでしたが、家久はいきなり敵将を討ち取る大きな武功を挙げます。ここから家久の武人としての輝かしいキャリアが始まりました。
兄直伝の「釣り野伏」発動!
天正12(1584)年、北九州から勢力を拡大してきた龍造寺隆信との沖田畷の戦いでは、10倍近い敵軍を相手にしました。家久は、若い頃から長兄・義久が考案したという「釣り野伏」戦法を得意としてきましたが、ここでもそれを用いて相手を混乱状態に追い込み、龍造寺隆信以下重臣たちを討ち取ったのです。
家久のこの働きによって、九州全土に島津の力を見せつけることになりました。そして、家久は知行を得て部屋住みの身分を脱したそうです。
家久の武勲はまだ続きます。
豊臣秀吉の九州征伐の手が伸び、天正14(1587)年にその緒戦となる戸次川の戦いが起こりました。相手は仙石秀久や長宗我部元親・信親親子などの連合軍です。ここでも家久は釣り野伏を駆使し、相手を大混乱に陥れます。乱戦の中で長宗我部信親など多くの敵将を戦死させ、家久は島津の強さを秀吉にまで見せつけたのでした。しかし圧倒的な豊臣軍にして戦況が不利になり、島津は降伏を選びます。
天正15年(1587年)6月5日、秀長軍と講和していた家久は、41歳という若さで急死してしまいます。
一般的には病死だったとみられていますが、その最期には謎が残っており、島津方の史料には秀長に食事で毒を盛られたなんて話もあるのだとか。
智将でありながら豪腕の持ち主
家久はその野戦の才能から、智略に優れた武将であるとともに、実際は豪傑肌の武将でもありました。朝駆けの奇襲をかけてきた敵勢に対し、家久は悠然として三尺余の大太刀をとって敵を蹴散らしたといいます。正面から戦いを挑んだものは、兜を叩き割られてしまったそうで、家久の豪腕ぶりがうかがえます。
また、時には家来たちに厳しい軍令を下すこともあったといいます。沖田畷の合戦の前に、「一同背後には海があって逃れることができず、前には2万5000の敵兵がいる。必然死すべきことを覚悟し、臆病によって薩摩の名を汚さないように、恐れず勇敢に攻撃すべしである」と演説しました。
こうして、家久は退却を認めない「場定め」という軍律を課したため、皆、死にものぐるいで戦ったといいます。
武人の鑑のような家久、その血を受け継いだ豊久
これほどまで厳しい家久に、なぜ家来は従ったのでしょうか。それは武人としての魅力も備わっていたからです。
沖田畷の戦いは、息子・豊久の初陣でもありました。厳しい戦いを予想した家久は、息子の甲冑姿を見て「あっぱれな武者ぶりだ」と褒めたたえます。ただ、「しかし上帯はこう結ぶのだ」と息子の鎧の上帯をきつく締め直し、その両端を切り落として解けないようにしました。
そして、「討死しなければこの上帯は私が解こう。しかし負けて屍を晒すことになれば、端を切った上帯を見て、敵はみな島津の者はこのような覚悟で戦に臨んでいると知るだろうし、そうなれば私にとっても喜びだ」と豊久に言い、戦場に送り出したのです。
戦は勝利に終わり、無事に戻った息子の上帯は家久自ら解いたということです(ちなみに、上帯でなく兜の緒という説もあります)。
豊久は、後に関ヶ原の戦いで伯父・義弘の身代わり(捨て奸)となって亡くなります。家久の息子らしい最期ですね。
また、戸次川の戦いで敗れた長宗我部元親が退却しようとした際は、干潮で船を出せない元親に家久は使者を送り、「信親殿を討ったのは戦場のならいで、やむを得ないことでした。満潮までゆっくりお退き下さい」と伝えたといいます。
敗戦の将であり子供を失った親でもある元親への気遣いに、人間としての度量の深さを感じます。
家久は、武勲だけで言えば四兄弟最強といえるでしょう。彼が若くして死ななければ、島津はどうなっていたのでしょうか。ただ、家久が智略に長け、人間的な魅力も備わっていたのは、義久をはじめとする兄弟たちがいたからでしょうね。
(xiao)
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