【実は酒乱で恐妻家】直情径行のザ・武闘派!福島正則

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【実は酒乱で恐妻家】直情径行のザ・武闘派!福島正則

大河ドラマ「真田丸」では秀吉に可愛がられた武将たちが個性豊かに描かれています。石田三成、大谷吉継、加藤清正・・・そして福島正則もそのひとりです。

加藤清正と仲が良く、彼と同様に豊臣秀吉に早くから仕えた福島正則は、永禄4(1561)年に尾張国に生まれました。母が秀吉の生母・大政所の姉妹だということで、親戚関係になるのも清正と同様です。
秀吉の小姓として仕えるようになると、信長亡き後の秀吉の最大のライバルとなった柴田勝家との賤ヶ岳の戦いにおいて、正則は一番槍となり一番首を挙げるという大功をたてました。秀吉はこれを評価し、戦いで活躍した「賤ヶ岳の七本槍」の中でも最も高い禄高を与えています。
その後、秀吉の天下取りのための戦いの数々で武功を挙げ、重要な地位を占めるようになっていくのです。

秀吉没後の身の振り方

「黒田長政と交換した兜」
「黒田長政と交換した兜」

秀吉の没後、正則を取り巻く情勢は変化していきます。
元々、豊臣政権内で軍務を担当した武断派の筆頭である正則は、政務を担った文治派、特に石田三成とはウマが合いませんでした。
そのため、加藤清正らと共に三成襲撃事件まで企てます。しかしこの時に徳川家康に諭されたことがきっかけで彼は徳川方に接近し、息子と家康の養女を結婚させています。

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは東軍に付き、先鋒を務めました。
戦後は安芸広島と備後の地を得て、領内では住民の年貢負担を減らし寺社保護に尽力するなど、良き為政者となります。
また、江戸幕府の城郭工事に参加して誠心を示す一方、病に伏せった豊臣秀頼を見舞うなど、かつての主君筋を気遣う態度も見せました。家康と秀頼の二条城での会見の成立までにも奔走しています。

ただ、大坂の陣においては秀頼の協力要請を断りました。
しかし、豊臣方に付く一族が出たために正則が従軍することは許されず、江戸で留守役を命じられています。豊臣の滅亡を見なくて良かったのかもしれませんが、複雑ですね。

そして、決定的な事件が起きました。
元和5(1619)年、台風の水害で壊れた広島城を幕府に無断で修理したとして、正則は咎められます。
この際の謝罪と態度が将軍・徳川秀忠の怒りに触れ、正則は安芸備後50万石から高井野4万5千石に減封されてしまうのです。
正則はこの地で出家・隠居しました。死後、福島家は一時取り潰されますが、やがて子孫により再興されています。

後悔先に立たず…大いに酒乱の気あり

正則については、酒癖が悪かったという逸話に事欠きません。
ある時、黒田長政の家臣・母里友信に酒をすすめて「これを飲み干せたら好きな褒美をやろう」と言い出します。友信が断ると、「黒田武士は酒に弱い、酔ったら役に立たぬ」と暴言を吐くので、友信は盃を受け取り、一気に飲み干しました。実は彼は酒豪だったのです。
そして友信は褒美に名槍「日本号」を所望しました。これは秀吉が正則に与えた家宝の槍でしたが、約束した以上やらないわけにもいかず、結局与えることとなったのです。自業自得の極みです・・・。

大身槍 名物「日本号」
母里友信に呑み取られた名槍「日本号」

また、他にもこんなエピソードが。
泥酔時に家臣から諫言された正則は、カッとなり切腹を命じました。
しかしそんなことは翌日にはケロッと忘れており、自害した家臣の首を見せられると、はっと我に返って泣き伏したといいます。これもまた後悔先に立たず。

こんな正則は、夫人・昌泉院に頭が上がらなかったそうです。正則が側室の所から帰ってきたところ、薙刀を持った夫人に追い回されたという逸話があります。戦場での姿とは正反対ですね。

武断派の名の通り、正則はどうしても豪放さと粗暴さが際立ってしまったようです。
本当は主君思いで仲間思いの部分もあるのですが・・・不器用な男です。
「真田丸」で深水元基さんが演じる正則はかなりの男前ですが、実際の正則の容姿についてイケメンだったという記述は見当たりません。が、これをきっかけに、その魅力を見直すきっかけになりそうですね。

(xiao)

 

参照元:
関ケ原町歴史民俗資料館
http://www.rekimin-sekigahara.jp/
福岡市博物館
http://museum.city.fukuoka.jp/

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