【裏切り、女好き…】あの戦国武将3人が暴君と呼ばれた理由

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【裏切り、女好き…】あの戦国武将3人が暴君と呼ばれた理由

いつの時代にも『暴君』と恐れられる偉人がいます。特に戦国の乱世であればなおさら。
けれどそうなってしまったのには何か理由があったからではないでしょうか。
今回は暴君と呼ばれ恐れられた、知る人ぞ知る戦国武将3人と、そのエピソードをご紹介します。

過酷な少年時代が形成した猜疑心・龍造寺隆信

「本当は僧侶になるはずだった隆信」
本当は僧侶になるはずだった隆信

肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信は、熊の毛皮を着ているゲームのイメージが強いかと思います。ただ、その剛勇ぶりは肥前の熊の異名にふさわしいものでした。

隆信は7歳で出家し、本来は僧になるはずでした。
しかし、祖父と父が謀反を疑われ殺されてしまいます。残った曾祖父が隆信を連れて逃げて家を再興し、能力を見込まれた隆信は還俗して後を継ぐこととなります。

急速に勢力を拡大し肥前を統一した隆信ですが、裏切りの中で生きてきた彼には、常に他人への猜疑心がありました。敵方へ接近するかに見えた娘婿を、宴席に誘い出して殺します。また、人質としていた武将の子供たちを、父親に疑心ありと見ただけで殺しました。

そんな隆信からは人心が離れていきました。ついに家臣にも裏切られ、そこに敵の島津氏が加勢し戦いが起こります。
太った隆信の輿を担ぐ家来たちは襲撃に遭うなりそれを放棄して逃げ出し、残された隆信は討ち取られ無残な最期を遂げました。

しかし、宣教師フロイスは「(戦における)細心の注意と決断の速さは、カエサルでも企てられないように思えた」と書き残しており、隆信が並みの武将でなかったことは明らかです。

英明と淫蕩のはざまで・大友宗麟

キリシタン大名として知られる大友 宗麟
キリシタン大名として知られる大友 宗麟

豊後国のキリシタン大名で、文化人としても知られた大友宗麟
その若かりし日々も過酷でした。
異母弟を溺愛した父は宗麟を廃嫡しようとし、それに対して宗麟一派は異母弟とその母を殺して父を負傷させました。
そして、宗麟は父の死の間際に家督を継ぐことを認めさせたのです。

宗麟は決して無能ではありませんでした。外交戦略に優れ、優秀な家臣の補佐を受けて勢力を拡大し北九州東部を平定します。海外との貿易も行い、フランシスコ・ザビエルに会いキリスト教にも寛容でした。

ところが、宗麟には大きな欠点があったのです。
それはあまりにも色を好んだことでした。金の力で全国から美女を集め、放蕩生活を送っていたようです。

特に義理の叔母を側室にしたことは、周囲を含めザビエルからキリスト教の教義に反すると非難されました。しかし宗麟は聞き入れることはありませんでした。

ある時、宗麟は家臣・一萬田親実の美人妻を見初め、奪うことに決めます。
そして戦の間にものにしてしまい、戻った親実はそれを恥じ切腹してしまいました。

それに対して親実の兄が叛旗を翻し、鎮圧には2年も要したのです。
そして、隆盛を誇った大友氏も衰退を迎えるのでした。

我が子を失った悲しみを乗り越えられず・長宗我部元親

長宗我部元親
長男が亡くなるまでは本当に英明な君主だった長宗我部元親

長宗我部元親は土佐国の大名です。
青年期は「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれる色白で頼りない若者でしたが、ひとたび戦場に出ると「鬼若子」となり相手を蹴散らす武勇を誇りました。
四国統一を成し遂げますが、織田信長と豊臣秀吉に屈し、土佐一国以外を明け渡すことになります。

そして最大の悲劇が天正14(1587)年の九州征伐の際に訪れました。
手塩にかけて育てた息子・信親が戦死してしまったのです。

元親の落胆は大きく、一時は自殺を考えたほどでした。
思い留まりはしたものの、なぜか二男と三男を差し置き四男の盛親に家督を譲ると言い出します。そして、反対した有力家臣や自身の一門まで粛清してしまいました。

その後、気力を失った元親により土佐の政情は不安定になり、ついには三男も幽閉してしまいます。
混乱した国を残し、彼は病没しました。
そして次の盛親の代で、長宗我部家は滅びることとなるのです。

いかがでしたでしょうか。
暴君とはいえ、3人とも優れた部分のある君主でした。
ただ、心に根を下ろした闇に負けてしまったのでしょう。

暴君には暴君たる所以があったのです。
そうした部分を見直してみると、どの偉人もまた違った一面が見えてきませんか?

(xiao)

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