今日5月21日は、長篠の戦いが行われた日です。
騎馬で名高い武田勝頼軍1万5千に対し、織田徳川軍3万8千は各所の丘に陣取り、馬防柵を設けた上で、3千丁の鉄砲で戦に臨みました。結果、武田軍は1万の兵と多くの名将を失ってしまったのです。この戦いで討死してしまった名将たちをご紹介しましょう。
その赤備えに誰もが恐れた・山県昌景
武田軍の中でも最も勇猛な『赤備え』を率いていた昌景もその一人です。
武具甲冑を朱色に統一した『赤備え』。スキー場で真っ赤なウェアを着ていたら目立つように、戦上で赤は非常に目立つため、味方を鼓舞し、敵を恐れさせる戦いぶりが求められます。
この赤備えは、当初昌景の兄・飯富虎昌が率いていましたが、虎昌亡き後、昌景が継承します。
昌景は赤備えに恥じぬ武将となり、馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信に並んで武田の四名臣と謳われました。信玄の死後は勝頼を補佐しますが、この勝頼とは反りが合わなかったようです。「信玄公ならばこうした」と忠告する昌景は、己のアイデンティティーを持ち始めた勝頼にとっては疎ましかったのでしょう。
長篠合戦の前に、織田徳川の大軍着陣の報に昌景は「撤退」を進言しますが、「昌景も老いたな、怖気づいたか」と詰られます。この言葉に、昌景は赤備えを率いた自負から死を覚悟します。
昌景は先鋒として織田徳川連合軍に突撃します。一歩も引かぬ戦いぶりを見せますが、馬上で采配を振るっていたところを狙撃され絶命しました。采配を口に咥え、右手に刀を持ったまま、何十発もの銃弾を受けていたということです。
比類なき働き、鬼美濃・馬場信春の死
武田四名臣の一角、馬場信春も長篠の戦いで討死しています。信春は、70数回の戦で一度も傷を負ったことがなく『不死身の鬼美濃』と称されました。
また、山本勘助から築城術を教わり、深志城(松本城の前身)なども設計しています。加藤清正や藤堂高虎のように文武に優れた武将で「一国の大守たる器量」とも評価されたほどです。
長篠の戦いにおいて、信春も撤退を進言しますが、容れられませんでした。戦で右翼を担当した信春は、滝川一益、佐久間信盛隊を撃破しました。しかし、幾重にも設営された馬防柵が、武田軍の速さを殺します。そこに、あちこちから放たれる3千丁の鉄砲を前に犠牲者が増えた武田軍は撤退を余儀なくされます。そして、この撤退戦が信春最期の戦いとなりました。
殿軍(しんがり)を務めた信春は、追撃する一隊を壊滅させ、なお戦い続けます。勝頼撤退の時間を稼いだ後、攻め寄せる敵に「わが首取って、手柄とせよ」と従容と死につきました。信春が守っていたこの猿ヶ橋よりも後に、武田軍の死骸は発見されていないそうです。
この戦いぶりは敵味方ともに感じ入り、『信長公記』では「馬場美濃守、手前の働き比類なし」と称される程でした。
鉄砲の導入によって命運が分かれた戦
武田軍は、他にも真田信綱・昌輝兄弟(真田昌幸の兄)、内藤昌豊、土屋昌次、甘利信康、原昌胤など数多の武将を失った一方、織田徳川連合軍は松平伊忠が討死しただけでした。
通常では武将を討取るということは、それなりの手練でないとできません。しかし鉄砲は、うまくいけば足軽が一発で猛将すら討取れてしまうのです。武将も鉄砲隊のお蔭で後方から指揮に専念できます。
長篠の戦いは、鉄砲という武器の導入によって、従来の戦いで臨んだ武田軍が敗れたというのが本質でしょう。これ以後、戦の戦法は大きく変わっていくことになるのです。
(黒武者 因幡)
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