【会津戦争と白虎隊】少年たちの悲劇と生き残った人物とは?

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【会津戦争と白虎隊】少年たちの悲劇と生き残った人物とは?

歴史上にはさまざまな戦いがあり、多くの人が犠牲になってきました。その中でも悲劇の一つとして伝わるのが会津藩の白虎隊です。今回は白虎隊について、彼らがどのような組織だったのか、そして悲劇といわれる彼らの壮絶な最期や生き残った隊士についてご紹介します。

白虎隊とは?

白虎隊は会津藩(現在の福島県)の少年たちによる部隊です。戦場に出るにはまだ若い10代の少年たちは、なぜ部隊として編制されたのでしょうか。

会津藩の軍制改革により結成

慶応4年(1868)「鳥羽・伏見の戦い」終結後、会津藩は新政府軍の襲来に備え、今までの精神論ではなく戦力を重視した軍制改革を行います。軍の体制はフランス式に変更され、年齢別に「玄武隊」「青龍隊」「朱雀隊」「白虎隊」が結成されました。
玄武隊は50歳以上の予備隊、青龍隊は36~49歳までの国境守備隊役、朱雀隊は18~35歳までの主力実戦部隊、そして白虎隊は16~17歳までの予備隊で、いずれも武家の男子によるものでした。

藩校・日新館の少年たち

会津藩の藩校・日新館
会津藩の藩校・日新館。日本最古のプールとされる“水練場”もありました。

当時の会津藩では、10歳になると藩校・日新館に入学することが義務付けられていました。会津藩における武士の階級は、おおまかに「上士(士中)」「中士(寄合)」「下士(足軽)」に分けられます。日新館に入学するのはこのうちの上級武士である上士の子供で、白虎隊はこの日新館で学んだ少年たちによって構成されていました。悲しい最期を遂げた白虎隊ですが、その逸話を残したのは士中二番隊の少年たちです。

彼らの戦いの足跡とは

若松城
会津の若松城(鶴ケ城)。

白虎隊は元々予備戦力として考えられていました。しかし、ついには戦場へと駆り出されてしまいます。壮絶な最期を遂げるまで、彼らはどのような足跡を辿ったのでしょうか。

会津戦争が勃発し出陣

慶応4年(1868)「鳥羽・伏見の戦い」を発端に戊辰戦争が勃発します。会津藩は新政府への恭順を示すつもりでしたが、新政府側からは幕府勢力の中心として敵視されていました。こうして新政府側は会津に侵攻、会津戦争へと発展していくのです。

会津藩の当初の布陣は、主力の朱雀隊が第一線に、続いて青龍隊が国境に、玄武隊・白虎隊は予備に廻るというものでした。元々戦闘予定がなかった白虎隊は、主に警護の任務についていたのです。
しかし、戦況が悪化すると、白虎隊にも出陣命令が下されます。会津藩は若松城(鶴ヶ城)を守るため若松への街道口を封じましたが、新政府軍はこれを突破し侵攻。また、会津藩は進軍する上で重要な十六橋の陥落にも失敗しており、状況はかなり不利でした。白虎隊はこれを支援すべく防衛拠点へと投入されたのです。

戸ノ口原の戦いで敗走

会津藩の藩境・母成口が突破されると、戸ノ口原から応援要請が出されました。白虎隊は滝沢本陣まで藩主の松平容保を警護していましたが、一番隊はそのまま護衛の任務に、二番隊は援護すべく戸ノ口原へと向かいます。二番隊はここで新政府軍と激戦を繰り広げますが、相手勢力を止めることはできず、城下への侵入を許すこととなります。こうして大きな打撃を受けた白虎隊は、負傷者を抱えながら飯盛山へと引き返していきました。

飯盛山での自刃

白虎隊の墓所
飯盛山にある白虎隊の隊士たちの墓所。

やっとの思いで飯盛山に落ち延びた隊士たちでしたが、そこで目にしたのは炎に包まれた城下と若松城の姿でした。「若松城が落ちた」と思い絶望した彼らは、その場で自刃することを決意します。20名の少年たちは刀を抜いて腹を切り、あるいは喉を突きました。急所を外した飯沼貞吉だけは一命をとりとめましたが、他の19名は悲劇的な最期を遂げたのです。しかし、実際には若松城は籠城中であり、陥落したわけではありませんでした。

こうした誤認による自刃が通説ですが、生き残った飯沼の手記「白虎隊顛末略記」によれば、若松城に戻り戦うか、敵陣に斬り込み玉砕するかで意見が分かれ、あくまで彼らは戦闘を望んでいたようです。しかし、負け戦は百も承知だったため、敵に捕まり恥をさらすくらいならばと、落城していないことを知りつつ自決したといいます。彼らの自刃は武士としての誇りを示すためのものだったのでしょう。

白虎隊を後世に伝えた飯沼貞吉

飯沼貞吉
白虎隊の唯一の生き残り、飯沼貞吉。何度も自殺を考えたといいます。

白虎隊の悲劇は、唯一生き残った飯沼貞吉によって明らかになりました。飯沼はどのようにその後の世の中を生き抜いたのでしょうか。

白虎隊について語ったのは晩年

飯盛山の集団自決の中で一人だけ生き残った飯沼貞吉は、のちに貞雄と改名し、逓信省の通信技師として各地で勤務しました。日清戦争にも従軍し、77歳で生涯を閉じています。

飯沼は当時15歳。年齢を偽ってまで白虎隊に参加しましたが、飯盛山では喉元を脇差で刺したものの死に切れず、会津藩士・印出新蔵の妻ハツによって介抱されたといわれています。ハツにも飯沼と同じ年頃の息子がおり、その子が家に帰らぬため心配して探していたところ、飯沼を発見しました。その後、長岡藩の軍医によって一命をとりとめた飯沼は、新政府軍の長州藩士・楢崎頼三(ならざきらいぞう)に見込まれ引き取られています。
飯沼の生存は限られた者以外には秘密とされ、一人生き残ったことを恥じていた彼は何度か自殺を思い立ちましたが、楢崎から「心を一つにして国を強く豊かにしなければいけない」と諭され、勉学に身を入れるようになったといいます。

日清戦争に従軍していた際に「私は白虎隊で死んでいるはずの人間です」と言って笑ったというエピソードが残されている飯沼。飯盛山での出来事を語ったのが晩年だったのは、自分の生存がそもそも秘匿とされていたこと、生かされたことへの葛藤があったからかもしれませんね。

悲劇として語り継がれる

会津のために命を賭し戦いに臨んだ少年たちですが、最期は戦死や自刃といった悲劇に見舞われました。もし飯沼が生きていなかったら、こうした悲劇の物語は今なお知られていなかったかもしれません。白虎隊の魂が眠る飯盛山には、150年たった現在も彼らの死を偲び多くの人々が訪れています。

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