オー・ヘンリーの短編小説『賢者の贈り物』をご存知でしょうか。
貧しいけれども仲の良い夫婦がいました。夫は祖父から貰った立派な懐中時計を持っていました。そして、妻はきれいな髪を誇りに思っていました。クリスマスを迎えるにあたって、妻は夫に懐中時計を吊るす金鎖を買うため、自慢の髪を切って売ってしまいます。一方、夫は妻のプレゼントに鼈甲の櫛を買うため、自慢の時計を売ってしまいました。互いのプレゼントは、意味を成しませんでした。しかし、相手を想う気持ちという最高の贈り物をしあったという物語です。
この物語のような夫婦が戦国の日本にもいました。それが、明智光秀と妻・煕子夫婦です。
明智光秀と妻・煕子の結婚
光秀と煕子の結婚は天文14(1545)年頃と言われています。結婚前に煕子は疱瘡に罹り、顔に痘痕が残ってしまいます。煕子の実家・妻木家は、代わりに妹を嫁がせようとしますが、光秀はそれを拒みました。「容貌は変わりやすいもの。だが、心の美しさは決して変わらぬ」と語り、煕子との結婚を願ったそうです。光秀の煕子への愛を感じますね。
糟糠の妻
長良川の戦いで斎藤道三に与した光秀は、その跡を継いだ義龍に攻められて浪人となり、貧しい生活を余儀なくされます。
そんななか、連歌会を開くことになりました。連歌会の主人ともなると、皆を接待しなければなりません。だが、貧しい光秀には接待を費やすお金がなかったのです。
そんな光秀に煕子は「お金は何とか致します」と応え、次々と料理や酒を出してもてなしたのです。参加者はみな満足し、会は大成功でした。
礼を述べて頭を下げる光秀に、片づけをしていた煕子も頭に巻いていた手拭いを取って礼を返します。
その時、光秀は驚きます。煕子自慢の黒髪は尼のように短くなっていたのです。
そう、煕子は自慢の黒髪を売って、ご馳走を買ったのです。
「すまぬ。私は必ずお前にこれ以上苦労をかけぬようにする。数年待っていてくれ」
そうして数年後、光秀は織田家の重臣となるのです。以後も、光秀は煕子を大事にし、子供にも恵まれました。ちなみに三女・珠は、細川忠興に嫁ぎキリシタンとなった「細川ガラシャ」として有名ですね。
しかし煕子は、天正4(1576)年、亡くなってしまいます。(※享年は諸説あり)光秀の悲しみはどれほどであったでしょう。
一族滅亡
織田家中で順調に地盤を築いていた光秀でしたが、天正10(1582)年6月、主君・織田信長に叛旗を翻して、京都・本能寺を急襲します。これで、戦国時代の勢力図は大きく変わりました。
光秀は羽柴秀吉との決戦・山崎の戦いに敗れ、近江に落ちる途中で落ち武者狩りに遭い命を落としたといいます。
悲報を聞いた明智家では、光秀の長女の婿であった明智秀満によって、一族全員自害したとされています。
ただ、光秀の子の数については諸説あり、『本能寺の変 431年目の真実』を書いた明智憲三郎氏は、光秀の子息・於寉丸の末裔だと言われています。
また、細川忠興に嫁いだガラシャに子供がいることから、光秀の血筋が完全に絶えたわけではありません。
先日もクリス・ペプラーさんが光秀の直系子孫だったことがニュースになりましたよね。(光秀の実子という説もある土岐頼勝の子孫とのこと)
人の心を打つ夫婦の純愛
明智光秀・煕子夫婦の物語は、後世の文人の心も捉えました。
近江・西教寺にある明智一族の墓を訪れた松尾芭蕉は、煕子が髪を売って光秀を支えた逸話を耳にし、次の句を残しています。
月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せん
光秀・煕子夫婦の純愛は、時を経て、私たちの心を打ち続けています。
(黒武者 因幡)
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