【明智光秀家臣:斎藤利三】最期まで恩義に報いた重臣の生涯に迫る

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【明智光秀家臣:斎藤利三】最期まで恩義に報いた重臣の生涯に迫る

戦国最大の下剋上といえば、織田信長に反旗を翻した明智光秀を思い出す人も多いでしょう。三日天下に終わってしまった光秀ですが、これは周囲の協力が得られなかったことも関係していたようです。
しかしそんな光秀にも、斎藤利三(としみつ)という忠実な家臣がいました。光秀に忠義を尽くした利三とはどのような人物だったのでしょうか。利三の生まれや、光秀の家臣になった経緯、戦での奮闘などについてご紹介します。

明智家の家臣になった経緯

利三は光秀の家臣になるまでにさまざまな主君に仕えていました。どのような経緯で光秀の重臣となったのでしょうか。

美濃斎藤氏の一族出身

利三は天文3年(1534)戦国武将・斎藤利賢の次男として誕生しました。斎藤道三とは別の系譜で、美濃斎藤氏の一族出身ではあるものの、その家系については諸説あるようです。
母は越中蜷川家・蜷川親順の娘といわれていますが、徳川家の正史『徳川実紀』には「斎藤利三は明智光秀の妹の子」とも記載されています。

幕府の奉公衆から稲葉家の家臣に

妙心寺智勝院所蔵の稲葉一鉄像です。

もともと利三は実兄・石谷頼辰や光秀と同じように幕府の奉公衆でしたが、上京後は摂津国・松山新介に、次いで斎藤義龍に仕えるようになりました。
ところが同じく義龍の家臣だった西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(良通)が、斎藤家から離反して織田家に従属。利三はこれに従い、その後は稲葉氏の家臣となります。

光秀に重用され丹波黒井城主になる

一鉄の家臣となった利三ですが、元亀元年(1570)以降は光秀の配下になったようです。この鞍替えについては、利三が一鉄といさかいを起こして袂を分かち、親戚関係にあった光秀をたよったからともいわれています。
光秀の家臣になってからは、明智秀満と並んで筆頭家老として重用されました。光秀の丹波平定後は、1万石の丹波黒井城主になり氷上郡の統治にもあたっています。

最期まで主君に付き従った利三

本能寺の変は光秀だけではなく家臣の利三にとっても重要な出来事でした。このとき利三はどのような働きをしたのでしょうか。

本能寺の変の計画に反対したが…

本能寺の変を描いた『錦絵本能寺焼討之図』です。

『信長公記』や『川角太閤記』によれば、天正10年(1582)光秀は本能寺の変の計画を、藤田行政、溝尾茂朝、秀満といった一部の重臣に打ち明けました。そしてその中には利三も含まれていたのです。
利三はその計画の無謀さから、秀満とともに反対したといいます。しかし主君の命令には逆らえませんでした。また光秀の恩義に報いる気持ちもあったため、首謀者の一人として本能寺の変に参加せざるを得なくなったのです。

山崎の戦いで先鋒として奮闘

本能寺の変の後は、中国大返しにより引き返してきた羽柴秀吉と山崎の戦いで激突します。利三は先鋒として活躍しますが、結果的に敗れて逃走しました。梅雨時だったこともあり暑さで衰弱していた彼は、執拗な捜索により近江堅田で捕縛されてしまいます。そして秀吉の命令により六条河原で斬首されました。

本能寺の変の黒幕は利三だった!?

度重なる焼失や再建を経た本能寺。現在の本堂は昭和3年(1928)に建てられたものです。

本能寺の変の真相は未だ謎ですが、利三の黒幕説も存在しています。なぜそのように言われているのでしょうか。

信長から切腹を命じられた

利三の口利きにより稲葉家から那波直治を光秀が引き抜いた際、一鉄はこれを不服として信長に抗議しました。その意見を聞き入れた信長は、那波を稲葉家に返し、利三を切腹させるよう命じます。しかし光秀はこの命令を拒否したため、激怒した信長から折檻されました。
信長の判断が下されたのは、本能寺の変のわずか3~4日前のことです。切腹は周囲のとりなしで撤回されたものの、信長に不服を感じた利三が、主君の光秀に働きかけたのではないかと考えられています。

親戚・長宗我部氏との関係

光秀は織田氏と同盟関係にあった四国・長宗我部氏との取次役を務めており、家臣の利三も長宗我部元親と姻戚関係にあるなど深い関係にありました。
ところが石山本願寺が降伏したことで、その背面に位置していた長宗我部氏の価値が薄れ、信長は同盟関係を結んでいたにもかかわらず四国に勢力を拡大しようと動き出します。利三はこれを阻止しようとしたとも考えられており、山科言経の『言経卿記(ときつねきょうき)』には「日向守内斎藤蔵助 今度謀叛随一也」と事件の中心人物とするような記載もみられます。
なお、長宗我部氏も信長の裏切りには反発しましたが、のちの史料から降伏を決意していたことがわかっています。

娘は徳川家光の乳母・春日局

麟祥院所蔵の春日局蔵です。

利三の後室は一鉄の娘で、2人の間には斎藤利宗、斎藤三存らが生まれました。しかし最も有名なのは末娘の福でしょう。
母方の親戚である三条西公国に養育された彼女は、書道、歌道、香道など公家の教養を身につけた後、伯父・稲葉重通の養女になり、稲葉正成の後妻となりました。
その後は2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の徳川家光)の乳母に任命され、家光の将軍継嗣において功績を残したり大奥をまとめたりと権勢を振るいました。朝廷から賜った「春日局」という称号で広く知られています。

明智家の重臣として全うした

利三はさまざまな主君に仕えましたが、最期は明智家の重臣としてこの世を去りました。光秀に対しては大きな恩義を感じていたのかもしれません。
利三の死後、その首は親交のあった絵師・海北友松によって京都の真正極楽寺へと葬られました。斬首後は光秀の首とともに本能寺に晒されたとも言われており、まさに最後まで主君と運命を共にしたといえるでしょう。

 

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