散り際の美学とはよく耳にしますが、それが最もよく見られたのはやはり戦国の世ではないでしょうか。
とはいえ、散り際も色々です。壮絶な死、奇病による死など現代では考えられないような死に方をした戦国武将もいるんですね。
今回は一風変わった死を迎えた武将たちの最期をご紹介します。
日本史上初めての爆死者・松永久秀
出自も生年も不詳、低い身分の出身であったと推測できる松永久秀は、才能を生かして出世していきました。
室町幕府を牛耳った三好政権で名を上げ、その後は織田信長に接近します。茶道など芸術に秀でていた彼は、人質の他に名茶器「九十九髪茄子」を献上したそうです。
ところが彼には謀反癖のようなものがあり、信長に対しても何度も謀反を起こしています。
それを信長も許していたのですから、何とも言えない不思議な魅力があったのでしょう。
しかし、天正5(1577)年に信長に叛いた彼は、居城に籠もって信長軍と対峙しました。信長は使者を派遣し、謀反の理由を問うと共に久秀所有の名茶器「古天明平蜘蛛」を差し出せば許してやると言います。
久秀の答えは「ノー」でした。
彼は信長への返事として、「この平蜘蛛の釜と俺の首の二つは やわか信長に見せさるものかわ」としたためたそうです。平蜘蛛も自身の首も、お前には見せないし渡しもしないと突っぱねたのですね。
そして久秀は天守に火を放ち、平蜘蛛に爆薬を仕込むと、なんとそれと共に爆死して果てたのです。
日本史上初めて爆死を遂げた人物だと言われています。
腹に虫がいた!? 丹羽長秀
織田信長の重臣だった武将、丹羽長秀。
勇猛さでは「鬼五郎左」、何でもこなすマルチぶりは米のように欠かせない存在だとして「米五郎左」とも呼ばれました。
信長が討たれてからは豊臣(当時は羽柴)秀吉に従いましたが、天正13(1585)年に胃癌で死去しています。
ところが、彼の死には妙な逸話が残されています。
主家の織田家をないがしろにして勢力を伸ばしていく秀吉を止められなかったことを恥じて割腹自殺し、腹の病巣部を取り出して秀吉に送りつけたというのです。
一方、長秀の腹には「積聚(しゃくじゅ)」という虫がいたといい、苦痛に耐えかねた彼は「なぜ虫のために殺されようか!」と腹に刀を突き立てて果てたとも言われています。火葬してもその虫は燃え残っており、亀のような形をして嘴を持っていたと伝わっています。
辞世の句に込められた恨み・織田信孝
信長の三男、織田信孝は、容貌や勇猛さが信長に良く似ていたそうです。
本能寺の変が起こると、中国地方から戻った秀吉の軍と合流して明智光秀を討ちました。
しかし信長の後継に指名されず、やがて政権の中枢に座った秀吉に地位を圧迫されていきます。
天正11(1583)年、賤ヶ岳の戦いの際に挙兵しますが、秀吉側に付いた兄・信雄の軍勢に居城を包囲され、降伏を余儀なくされます。
そして信孝の身柄は尾張の野間大坊という寺に送られ、自害させられました。
そこで信孝はなんと腹を掻き切ると腸を掴み出し、床の間の掛け軸に投げつけたそうです。今でも掛け軸には血の跡が残っているそうですよ。
彼の詠んだ辞世の句には、秀吉への強い恨みが込められています。
“昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前”
(野間の地は、源義朝が部下の裏切りで殺された場所。その部下も非業の死を遂げた。
お前もいつかそうなるだろう、報いを待っていろ、秀吉!)
後世の作とも言われていますが、信孝の無念は推して知るべし、ですね。
いかがでしたか?
戦国武将の死に様にはいつもドラマがあり、いっそう武将を魅力的にします。まだ誰も知らないドラマを、歴史の中から掘り出してみるのも面白いですよ。
(xiao)
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