【金栗四三の妻:春野スヤ】結婚の経緯と夢を追いかけた2人の生活

未分類
【金栗四三の妻:春野スヤ】結婚の経緯と夢を追いかけた2人の生活

2019年の大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』には東京オリンピック招致に貢献した田畑政治(たばたまさじ)や短距離の三島弥彦(みしまやひこ)をはじめとしてさまざまな人物が登場しますが、綾瀬はるかさんが演じることで話題になっているのが金栗四三(かなくりしそう)の妻・春野スヤです。オリンピック選手としてマラソンに賭ける人生を送った金栗ですが、それを陰で支えたスヤとは一体どのような人物だったのでしょうか。

今回は二人が結婚に至った経緯やその後の結婚生活、そしてオリンピックへの思いについてご紹介します。

金栗四三の妻、春野スヤとは?

スヤは熊本県玉名郡石貫村、現在の熊本県北部の生まれで、医者の娘でした。年齢は金栗の1歳下なので同年代の女性ということになります。金栗とは同郷の出身ですが、大河ドラマの設定のように幼馴染というわけではなかったようです。

2人の馴れ初めはお見合いだった

結納の儀
縁談から結婚式まで、2人はどのような経緯を辿ったのでしょうか。

二人が出会ったキッカケはお見合いでした。当時としては珍しいことではなかったかもしれませんが、一体どのようにして縁談がまとまったのでしょうか。

金栗に持ち上がった養子縁組

明治45年(1912)ストックホルムオリンピック大会に出場するも辛酸をなめた金栗は、次回のベルリンオリンピックに向けてトレーニングに励んでおり、後輩へのコーチングも開始していました。そんな中、長兄の実次(さねつぐ)から養子縁組の話がきたのです。
二人の叔母に当たる池部幾江は、資産家の池部家に嫁いだものの夫に先立たれた上に子供もおらず、なんとか池部家を存続させたいという考えがありました。そこで、自分の血縁である金栗を養子にして跡取りにしようと考えたのです。
当初はこの話に難色を示した実次でしたが、叔母の勢いに負け、本人が承諾するのであればという条件付きでこの話を受けました。当の本人である金栗は、ベルリンオリンピックの練習に支障がないなら問題ないと考え、熊本に帰らず東京に留まることを条件に養子縁組を受けることになります。なお、養子に入り本名は池部四三となりましたが、養子先の計らいでその後も金栗姓を用い続けました。

スヤをすっかり気に入った金栗家

返事を聞いた幾江は、金栗が養子になった上に結婚もしてくれれば池部家も安泰だと考え、嫁探しも始めました。そこで彼女の眼鏡にかなったのがスヤだったのです。スヤはしっかりした性格で、金栗のマラソンへの情熱もよく理解していました。幾江からスヤを紹介された実次は、本人に会わせる前だというのに大変スヤを気に入り、すぐに見合いをするよう金栗に勧めます。

お見合い後すぐに結婚式!

縁談はとんとん拍子に進み、金栗とスヤは熊本でお見合いすることになりました。このとき金栗は23歳、スヤが22歳でした。初対面の二人ですから、通常ならそこから少しずつ距離を縮めて……となりそうなところですが、なんと二人はその翌日に結婚式を挙げてしまいます。現在で考えてもビックリするほどの早さで、今で言うところのスピード結婚ですよね。

しかしこの養子縁組と結婚は、金栗にとってプラスだったといえるでしょう。普通なら就職する年齢に達していた金栗は、オリンピックでの好成績を狙うためにもマラソンに専念したい考えがありました。そんな彼にとって、働かなくても問題ないほど裕福だった池部家の跡取りという地位は、良い環境を維持するためにも効果的だったといえそうです。

金栗を支えたスヤ

出会った翌日に挙式した二人ですが、その結婚生活は少し特殊な形でスタートを切ることとなります。二人の結婚生活はどのようなものだったのでしょうか。

別居を余儀なくされた2人

結婚式から5日後、二人は別居生活をスタートさせました。というのも、金栗はスヤを熊本に残して一人で東京に戻り、マラソンのトレーニングに励むことになったからです。
スピード結婚の上に即別居とはなんとも型破りですが、そんな状況にも理解があるスヤだからこそ金栗はすぐに結婚を決めたのかもしれませんね。このような別居生活は5年も続きました。

オリンピックに向けて夫をサポート

ベルリンオリンピックの写真
金栗が目指したベルリンオリンピックの写真です。

東京と熊本という遠距離で暮らすようになった二人ですが、それでもまるで会わないわけではなく、時折スヤが上京していたようです。
金栗は大正5年(1916)のベルリンオリンピックを目指していましたが、この大会は第一次世界大戦で中止になったため、次のアントワープオリンピックを目標に据えることとなりました。そうして迎えた念願の大会では、出発の準備を手伝おうとスヤが上京してきたといいます。しかし金栗は、すべてを忘れて祖国のために走りたいので邪魔しないでほしいと告げ、スヤを追い返してしまったそうです。そんな金栗に理解を示すことも、スヤのサポートの1つだったといえるでしょう。

この大会で16位という成績だった金栗は、その後に東京女子師範学校に勤務することとなり、スヤを東京へ呼び寄せて同居を始めます。大正13年(1924)パリオリンピックでは途中棄権し、これを機に競技生活から引退しました。

現役引退後も夫を支え続けた

嘉納治五郎
金栗の恩人であり、日本体育の父と呼ばれる嘉納治五郎です。

昭和5年(1930)親代わりだった実次が死去すると、二人は熊本に帰って幾江のいる池部家で生活を始めます。これには支援し続けてくれた幾江の恩に報いる意味もあったようです。
現役から退いた金栗でしたが、その後もスヤは彼を支え続けています。金栗が知人から梨園経営を勧められた際には「あなたはマラソンに捧げる人生を選んだのではなかったのか?」と叱ったといわれ、これにより金栗は熊本での陸上競技の普及や後進育成に力を注ぐことができたようです。

また昭和15年(1940)に東京オリンピック開催が決定した際は、金栗に開催準備の手伝いをして欲しいとの要請が来ました。このときも、子供たちの心配はいらないので上京して手伝うように、金栗の背中を押したといわれています。というのも、この要請は柔道の父と呼ばれる嘉納治五郎によるものであり、彼は金栗がマラソンを始めるキッカケとなっただけではなくオリンピック出場や職の紹介など、金栗にとって大の恩人でした。スヤには、そんな恩人の要請を無下にできないという思いもあったのでしょう。
金栗とスヤの間には6人の子供がいたので、一人で面倒をみるのは大変なことです。それでもスヤは夫の面目をたてたり背中を押したりと、金栗を支え続けました。

金栗の夢に向かい人生をともに走る

同郷でありながらお見合いで知り合った金栗とスヤは、長らく別居生活を続けながらも、マラソンの夢に向かって共に人生を駆け抜けました。オリンピックでは必ずしもいい結果を残せたわけではありませんが、それでも日本代表として大会出場の切符を手にしたり、後進の教育に関わったりと、金栗は偉大な功績を残しています。さまざまな人から援助された金栗ですが、その活躍の裏にはスヤの深い理解があったといえそうです。

 

<関連記事>
【マラソンの父:金栗四三】大河ドラマ『いだてん』の主人公に迫る
【田畑政治とは?】水泳教育とオリンピックにかけた人生
【日本体育の父:嘉納治五郎】柔道の創始者の偉大なる功績

Visited 1 times, 1 visit(s) today
READ  【少年よ、大志を抱け】北海道に大きな影響を与えたクラーク博士

コメント

タイトルとURLをコピーしました