「天狗」とは、文字通り、山にいる鼻の長いアレですね。源義経が稽古をつけてもらったという天狗です。
そんな天狗に憧れて、本気で修行をしていた人物がいました。室町幕府の管領・細川政元です。その本気ぶり、ここでご紹介しましょう。
応仁の乱の中心人物・細川勝元の息子です
細川政元は、応仁の乱で東軍の総大将となった細川勝元の嫡男として文正元(1466)年に生まれました。幼名は聡明丸と言い、乱のさなかで亡くなった父・勝元が臨終の際に「この子がいれば細川家は安泰だ」と言い残したとされ、その聡明さは買われていたようです。
父の死去に伴いわずか8歳で家督を継いだ政元ですが、元服したのはその5年後で、応仁の乱もようやく片付いた頃でした。
その後、室町幕府9代将軍・足利義尚は、幕府に反抗的だった六角行高を討伐することにしました。もちろん政元も協力しますが、義尚は討伐中に病死してしまいます。
そして起こった後継者問題で、政元は義尚の親戚筋に当たる禅僧・清晃(後の足利義澄)を推します。しかし、日野富子や対抗勢力の畠山政長の後押しによって、足利義材が10代将軍となりました。
不満たらたらの政元は、幕府と距離を置き始めます。
それから数年後の明応2(1493)年、政元は将軍が京に不在の隙にクーデターを起こし、義澄を11代将軍につけたのでした。これが明応の政変です。政敵の畠山も追い落とし、将軍はいわば傀儡で、政元は事実上政権を掌握したのです。
権力よりも大事なものがある…それは、修行だ!
将軍よりも力を持ち、「半将軍」とまで呼ばれるようになった政元ですが、政治よりも興味を持った分野がありました。それが、修験道です。いわゆる山伏がやっている修行ですね。
「足利季世記」には、「政元は40歳まで女人禁制とうたい、飯綱の法や愛宕の法を行い、山伏のように修行して陀羅尼(経)を唱えだしたりして・・・みんな本気でひいてました」という記録があります。飯綱や愛宕の法はいわゆる狐を使う妖術のことです。山岳信仰に通じており、すなわち天狗の法につながるとされていました。
政元は、天狗のように空を飛びたいと考えていたようで、山伏に従って鞍馬寺に籠もり修行をおこなったとも伝わっています。
逸話として、政元の邸宅の周辺では怪鳥が出現したり、生首が空に浮いていたり、なんていう気味悪い話もあります。変な術で呼び出しちゃったんでしょうか。
天狗への夢、果たせず
修行ラブすぎた政元は、時々出奔してしまうという癖がありました。ときには将軍自ら説得に行ったこともあったようです。「奥州へ修行に行く!」と言い出し、家臣に説得されて断念したこともありました。
このように、ひたすら天狗への道を追求していたので、政元には実子がいませんでした。修験道は女人禁制なのです。
そこで養子をもらったのですが、これが2人。となれば当然、後継を巡って争いが起きます。細川家を分裂させる内紛が起き、政元は風呂に入っているところを家臣に暗殺されてしまいました。そして、ここから名門・細川家は凋落へと向かうのです・・・。
政元による明応の政変が戦国時代の幕開けになったと、近年では言われています。そんな時代の転換期で権力の頂点にいた人物がもっとも望んだものが、天下ではなく天狗だとは・・・。暗殺されるときに術は使えなかったのでしょうか。
(xiao)
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