【藤田小四郎の人物像とは?】幕末を揺るがした「天狗党の乱」と水戸藩の迷走

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NHK大河ドラマ『青天を衝け』。主人公、渋沢栄一の主君・徳川慶喜に関わりの深い水戸藩の人物や「桜田門外の変」などの事件がしっかり描かれ、その重要性に注目されている方も多いだろう。そこで今回は「天狗党の乱」が水戸藩に与えた影響と、その首謀者・藤田小四郎のことについて述べよう。

天狗党挙兵のきっかけと、その顛末は?

ペリー来航から10年を経た元治元年(1864)3月、尊王攘夷論の「総本山」水戸藩内において藤田小四郎を首領とする天狗派(天狗党)が挙兵した。当時、彼らが早急に実現すべしと認識していた「横浜港の鎖港」を、幕府に訴えるためである。

天狗党を率いた藤田小四郎(左)と武田耕雲斎。「耕雲斎筑波山籠」画・河鍋暁斎(部分)

天狗党の中心メンバーは、先年の藩政改革で徳川斉昭に新たに登用された改革派。なかでも下級武士が中心だった。彼らは反対派から侮蔑の意味で「天狗」と呼ばれたが、筑波山で決起したさいに「天狗党」と呼ばれ、自分たちでも名乗ったといわれている。これと区別するかたちで、彼らと対抗した水戸藩の旧派・門閥派は「諸生党」(諸生派)と称された。筑波山での挙兵以前から、水戸藩では天狗派と諸生派が政治の主導権争いを繰り広げていたのである。

天狗党は、血気盛んな若者を中心に700~800人にまで膨れあがり、藩主・徳川慶篤も制すことができない集団となる。これに対し、ついに幕府は諸藩に天狗党の追討を命じた。多勢に無勢で敗れた天狗党。それでも、藤田小四郎は諦めない。

小四郎は京へのぼり、徳川慶喜に会えば何とかなると考えた。「自分たちは烈公(斉昭)の遺志を継いで尊攘の大義を貫こうとした者です」と主張し、朝廷と幕府に尊王攘夷を訴えたかったのだ。武田耕雲斎らの合流により、約1000名もの大部隊に膨れあがった天狗党は、同年11月1日、京都をめざして西上する。

天狗党は道中、諸藩と交戦しながら美濃へ進もうとするが、ほどなく街道が封鎖され、北陸方面への迂回を余儀なくされる。だが、福井まで進んだところで進退きわまった。追討軍の包囲網も厳しくなったばかりか、なんと頼みの綱である徳川慶喜が、幕府軍の指揮をとっているという報がもたらされたのだ。12月17日、天狗党は前方を封鎖していた加賀藩に降伏し、捕縛される。かくして「天狗党の乱」は収束した。これが、ごく簡単な乱のあらましである。

なぜ、天狗党は嫌われたのか?

天狗党が挙兵した筑波山

おもな原因となったのが、資金調達と称した近隣の町村の役人や富農・商人からの略奪である。とくに天狗党の諸隊のうちでも評判が悪かったのが、田中愿蔵(げんぞう=21歳)をリーダーとする「田中隊」であった。同年(1864)6月5日、田中隊は栃木宿で軍資金3万両の差し出しを求めるも町側が応じなかった。このため家々に押し入って町人らを殺害し、金品を強奪して宿場に放火した。翌日までに宿場内で237戸が焼失して「愿蔵火事」とまで呼ばれる騒ぎになった。真鍋宿でも77戸を焼いている。彼らは、もともと下級武士や農民出身者であり、潤沢な金も兵糧もなかった。それが、この略奪の一因であろう。

天狗党の大義名分は「攘夷断行」だった。孝明天皇が横浜港の鎖港を望んでいるのに幕府がやらないから、即時鎖港を訴えるために人を集めたというのが、彼らの正義であった。だが、それは単なるデモにとどまらず、大規模な「軍事行動」となった。このように、一部のメンバーに首脳陣の想定よりもはるかに過激な振る舞いが目立ち、大義を失ったのである。

慶喜は、なぜ天狗党を追討したのか?

禁裏守衛総督の職にあったころの徳川慶喜(福井市立郷土歴史博物館蔵)

慶喜は、みずから朝廷に願い出て、加賀藩・会津藩・桑名藩の兵を従えて天狗党の討伐に出た。天狗党からみれば、旧藩主の息子で親分ともいえる慶喜が、よもや自分たちを討伐に来るなどとは思いもよらなかったようだ。

天狗党は大軍勢であり、各藩の軍と戦い、また略奪や暴行の騒ぎも起こしていた。京の朝廷や幕府から見れば立派な反乱軍である。慶喜はこの時期、禁裏御守衛総督(京都御所を警護する責任者)という立場にあった。さらに7月には「禁門の変」で長州を御所から撃退し、その後も薩摩などの諸藩と政権争いを繰り広げる渦中にあった。もはや「攘夷」とか「横浜鎖港」など些末な問題だった。そんな慶喜にとって、天狗党は自分の立場を危うくする存在でしかなかった。天狗党が挙兵の大義を失っていた以上、庇うことは不可能とみたのかもしれない。

「(首領の)武田耕雲斎は、同志の者を引きつれて敦賀まで来た時に、一橋慶喜公が兵を率ゐて討伐に向はれると聞いたものだから、慶喜公を敵にして戦ふわけにもゆくまいといふので、遂に一同は丹羽玄蕃丞まで降服を申入れて、帰順の意を表することになつたのである。」(渋沢栄一の回想録『実験論語処世談』)

乱が終わり、降伏して捕まった天狗党員は828名。うち武田耕雲斎や藤田小四郎ら幹部をはじめ、352名が斬首刑となり、残る者は助命され遠島、追放などの処分を受けた。水戸藩では、諸生党の手で天狗党の家族が処刑された。63歳の武田耕雲斎にいたっては、妻や妾だけでなく、幼児を含む子供や孫までもが斬首されるという惨劇が繰り広げられた。

首謀者・藤田小四郎とは、どんな人物だったのか?

「平岡円四郎の外に、私の知ってる人々のうちでは、藤田東湖の子の藤田小四郎といふのが一を聞いて十を知るとは斯(かか)る人のことであらうかと、私をして思はしめたほどに、他人に問はれぬうちから前途へ前途へと話を運んでゆく人であった。(中略)二十二歳(当時)にしては実に能く気の付く賢い人だと思ったのである。」(『実験論語処世談』)

藤田小四郎の才能を認めていた渋沢栄一(国立国会図書館蔵)

天狗党の首謀者・藤田小四郎と面識のあった渋沢栄一の回想である。渋沢は自身の恩人・平岡円四郎と同様に評し「然し、斯(かか)る性質の人は、余りに前途が見え過ぎて(中略)自然、他人に嫌はれ、往々にして非業の最期を遂げたりなぞ致すものである。」と、その危うさも述べた。暗殺された平岡とは異なるが、小四郎もまた24歳でその命を散らしてしまった。

そのように、世間的にあまり良いイメージのない小四郎だが、彼が馴染みにしていたという旅籠「紀州屋」の女中・大久保たかが、こんなことを語り残している。

「藤田(小四郎)は御存知の通り、東湖先生の庶子でした。東湖が地震で死んだ後は本妻の方へ引き取られ、とにかく遠慮がちの生活をしてきました。 『遠慮だっぺい。なぁおふくろ、輪切れの大根二切れをもらうのにも、一々あたまを下げなければならないのだから。』というような苦労を女将に語っていました。」(西村文則『藤田小四郎』より)

小四郎の母・さきは、藤田東湖の妾で土岐氏の出身だった。土岐氏といえば、美濃を中心に栄えた武家の名門である。茨城には美濃守護として有名な清和源氏土岐氏の分流である常陸土岐氏が存続していた。あるいは、そうした名門出身の矜持を受け継いでいたのかもしれない。

ちなみに小四郎が2歳の時に、さきは離縁されている。東照宮の例祭で、さきは正妻の里子と同じ帯を仕立てて出席した。その話が周囲に広まり、東湖にも非難の声が伝わったから、東湖はやむなく、さきを実家へ帰したという。これが上の話につながるわけだ。小四郎は天狗党の首領の座を武田耕雲斎にゆずっているが、こうした生まれの複雑さが、コンプレックスだったのかもしれない。

「藤田は弁舌が爽やかで、談判事などは凡て彼が引き受けていました。 ある日紀州屋の裏二階で志筑藩の士を集めて滔々と説き聞かせて鉄砲借用の談判をしていたのが今でも眼に残っています。 酒はなかなかいける方で、呑むときっとごろ寝をする癖があります。 女中が心配して起こすと、『大丈夫だよ、今考え事をしているのだ』というのが常でありました。」

藤田小四郎(『絵入 近世義士銘々伝』国立国会図書館蔵)

「天狗が落ち目になって、幕府の手先きがそろそろ廻って来た頃、藤田等は府中から小川街道を経て、湊の方へ立つこととなった。紀州屋女将は一行を見送りして別れを惜んだのでした。(中略)その時、小四郎は『おふくろ、また対面します』と云ったところ、 『またの対面はあてがないね・・・』と女将は云って、両人は別れを惜み、小四郎は、丸い大きな目から涙をぽろぽろこぼしていたそうです。」(いずれも西村文則『藤田小四郎』より)

この紀州屋の女中は、酒好きで、甘いもの好きだったとか、鯛の煮付けが好物だった、女将が病気のときは本気で励ましてくれたなどの多くの小四郎の逸話を懐かしそうに語っている。知られざる彼の人柄を偲ばせる。優秀な人ではあったが、まだ若さもあり、党員をまとめきれず破滅を招いてしまった。

その後の水戸藩、天狗党の「報復」

首脳陣が処刑され、壊滅状態となった天狗党だが、戊辰戦争(1868年)を機に息を吹き返す。幕府軍が瓦解し、薩長率いる新政府軍が「官軍」となったため、その援助により、天狗党の残党が水戸藩内で勢いを取り戻した。それまで息をひそめていた主流派となったのである。

水戸藩の藩校・弘道館跡の一室。幕末に藩医が書いた水戸学の思想「尊皇攘夷」(尊攘)の二文字がある(茨城県水戸市)

天狗党の乱に参加していた武田金次郎は、武田耕雲斎の孫であったが、若年を理由に遠島処分で済んだ。しかし、国許にいた耕雲斎の家族は皆殺しとなっており、金次郎は激しい憎悪と復讐の念にかられる。謹慎のすえに水戸へ帰った金次郎は、その後、朝廷から諸生党追討の命を取り付け、水戸藩内で報復に着手。今度は天狗党の残党が、諸生党およびその家族を処刑するという凄惨な光景が、また逆の立場で繰り広げられた。

水戸学の発展、徳川斉昭の藩政改革で多くの学者を輩出し、幕末の尊王攘夷運動の中心であった水戸藩。しかし、斉昭没後の混乱以後、このような内部抗争で多くの有能な人材が失われ、明治維新の主役に立つことができなかったのである。

「天狗党の乱」は、その水戸藩の数奇な運命を象徴する出来事であったということができよう。末えいが多く住む茨城では、天狗党・諸生党のことを語りたがらない方もおられるようだ。いまだ、それは完全な過去の歴史とはなっていないのである。

(文・上永哲矢/歴史随筆家)

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