現在の日本橋人形町で始まった江戸幕府公認の遊郭、「吉原」。
女性は一度その地に足を入れれば、お客から身請けしてもらうか、高利子で日々積もっていく莫大な借金を返し終えるか、死ぬか、しか脱出する術はありませんでした。
現代のお金に換算して数百円程度のお金で客の相手をする「夜鷹(よたか)」から、大名や地主、豪商といえども気分一つでソデにできる遊女の最高位「太夫(たゆう)」まで、様々な女性の光と闇が交差していた吉原。その大門を自分の足で出て行くことができた女性たちのその後はどんな人生だったのでしょうか?
前代未聞の遊女「2代目・吉野太夫」
名前が引き継がれていく名跡の「太夫」ですが、大名跡である「吉野太夫」の中でもっとも有名な「2代目・吉野太夫」(1606~1643年)。
和歌や俳諧といった文学の才能もあり琴や琵琶、笙といった楽器も巧みに操り、書道や茶道、囲碁などにも精通していた天才的な遊女であり、圧倒的な美貌も兼ね揃えていたことから、14歳で太夫となります。馴染み客の中には陽成天皇の皇子である関白の近衛信尋や豪商の灰屋紹益などもおり、その才能と美貌は日本国内だけではなく当時の中国・明にも知られるほどでした。
井原西鶴の処女作であり代表作の「好色一代男」でも吉野太夫のことが「なき跡まで名を残せし太夫。前代未聞の遊女也。いづれをひとつ、あしきともうすべきところなし。情第一深し」と、自愛深く素晴らしい遊女として描かれています。
その吉野太夫は26歳の時に、吉原を出て結婚。
38歳で亡くなるまで、短い生涯ながら穏やかに過ごしていたとされています。
京都市北区にある常照寺(じょうしょうじ)に朱門を寄進しており、日乾上人に帰依。現在でも、吉野太夫の墓は常照寺にあり、毎年4月には花供養が行われています。
名作落語として語り継がれている「紺屋高尾」
仕事一筋で生真面目な染物職人の久蔵が、稀代の美女・高尾太夫に惚れてしまう。様々な問題を乗り越えながらもめでたく結婚し、2人で染物屋を繁盛させる・・・そんなあらすじの古典落語「紺屋高尾」のヒロインが、5代目・高尾太夫です。
落語の中にはフィクションの部分も多いといわれています。
モデルとなった5代目・高尾太夫は染物職人の紺屋九郎兵衛に嫁ぎますが、駄染め(だぞめ)という量産染色方法で様々な柄の手拭を製造しました。当時の吉原へ繰り出す遊び人を中心に、この手拭は流行しヒット商品に。そのため、「駄染め太夫」と呼ばれることもあります。
染物職人のおかみさんとして3人の子宝に恵まれ、84歳まで生きていたとされています。
姫路の旗本大名を虜にした「榊原高尾」
姫路藩15万石の第3代藩主、榊原政岑(さかきばらまさみね)。
正室が亡くなって落ち込んでいた政岑が気晴らしに吉原へ出かけた際、出会ったのが6代目(7代目という説も)高尾太夫でした。
あまりの美しさに政岑は吉原で豪遊し、高尾太夫の気を引きます。高尾太夫を身請けする際も、史上最高額の身請け金とされている約2000両という大金を払いました。
晴れて高尾太夫を身請けできたのですが、当時は8代将軍の徳川吉宗が「享保の改革」として厳しい倹約令を発布していた時代。
吉原で大盤振る舞いしていた政岑は当然大目玉を食らうことになり、越後高田へ転封させられてしまいました。自身の散財から地方へ左遷させられた政岑ですが、越後高田では自ら倹約を率先して行い、越後高田の民の事を考えた治世を実施しました。
「榊原高尾」と呼ばれる高尾太夫も、政岑を支え貞淑で賢いと評価させています。
政岑が36歳で亡くなった後は、江戸の下屋敷で暮らし、天(明91789)年に68年の生涯を閉じました。
遊女出身者の中で、唯一大名の側室まで成り上がった女性でした。
遊女の最高位である「太夫」にまで昇り詰めた女性の生涯をご紹介しました。
太夫になった女性でも、吉原を出ることなく病が原因で死亡したり、様々な男性の元を転々としながら行き倒れていった女性もいます。
カリスマ性があり、江戸中から注目を集めていた江戸時代のヒロインですが、すべての太夫の人生が報われていたわけではないようです。
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